学院体験と「偉大なる後進国」アメリカ

              1968(S43)卒 19期 I組  菅谷洋司 政治

半世紀以上前の話になる。だが、私はその時の事を鮮明に覚えている。学院の入学式のことだ。今は建て替えられた講堂に私は入っていった。そこが入学式の会場。高級映画館にあるような座席に座って、式が始まるのを待っていると、舞台のわきから、ぞろぞろと先生たちが入ってきた。クラス別に着席した記憶はない。後ろから在校生なのだろうか。みんなが拍手している。彼らは立ち上がろうともしない。

「なんだこれ?」。

公立の小、中学校を卒業している私はなにか信じられないような風景だった。先生が立っていて、生徒たちが椅子にふんぞり返っている。どういう学校なのだろう。
 「君たちは早稲田大学付属高校に入ったのではない。あなたたちは早稲田大学高等学院に入学したのだ」。確か岡田学院長だと思うが、意味するところ高等学院は「高校」ではなく、「早稲田の学部(予科)」のようなものだというのだ。昔、学院は早稲田の一角にあり、この言葉通り生徒たちが酒にタバコと、まるで大学生のようなことをするので、現在の場所に移設したという伝説がある。

部活はボート部を選んだ。そこでも衝撃的な出会いがあった。新人歓迎会が尾久の艇庫近くの中華料理屋であった。ボート部担当の先生が型どおりの挨拶を済ませると退席した。かなり腹が減っていたが、まず出てきたのはケースに入ったビールの大瓶だった。そこでしこたま飲まされたあとに簡単な料理が出てきたと思う。今なら、こんなことはあり得ない。これが、今でもやめられないビールの飲み始めだった。
母親が、「早稲田学院」に入学させることを希望したために、私は学院を受験した。それまで名前さえ知らなかったが、受験科目が英、数、国なのは魅力的だった。英語はできたが、数学は全く理解できない。まあ、受かればこれで大学受験の心配はない。二年続けて落第しなければの話だが……
母親は私のハチャメチャな性格をよく知っていたのだろうと、今になって思う。「学院」は私に合っていた。1964年4月入学。だから私は18期生。だが、私は19期生として卒業している。同窓会理事長を務められていた椎名氏と卒業年次は同じ。18期の三年一学期を終え、アメリカに留学したため、19期のクラスメートとは三年の二学期、三学期だけが一緒だった。ロシア語履修者が半分で、あとの半分はフランス語のI組で、1968年に卒業している。

一学年11クラスある学院で、ドイツ語履修者が半分以上。当時は日比谷、新宿などの都立高が最上位のトップ校で東大を目指す人たちは、そちらを受験していた。学院の受験生の大多数は、早稲田の理工に進学することを目指していた。その人たちの多くは,第二外国語でドイツ語を選択。私がロシア語を選択したのは、地球物理学の学者だった父が、ロシア語(キリル文字)を覚えたほうがいいとのアドバイスに従った。それがソ連に行った時に役立った。ロシア語は英語と違い、文字がわければ、母音と子音の組み合わせである程度の発音ができる。

高校時代はロシア語を勉強せずに英語ばかり勉強した。アメリカでもどこでもいいから日本を飛び出したかったからだ。二年になるとボート部を一時やめた。AFS(アメリカン・フィールド・サービス奨学金)受験のためだった。無料で飛行機に乗り、アメリカ人の家庭に一年間住むことができるから魅力的だった。金のない私にはそれ以外の日本を脱出する方法はなかった。

当時、有名校から毎年何人かこの奨学金の試験に受かっていたが、学院で初めて、私を含めて二人受かった。もう一人はサウジアラビア大使を最後に引退した外交官の遠藤氏で成績はかなり上位。私は下から三十番以内には入っていたのに、どうして合格したのかいまだにわからない。安全パイで秀才をひとり。もう一人は体だけは丈夫そうで成績は良くなさそうだが、アメリカで生活できる精神力があると思ったのかもしれない。

学院で自由気ままに生きたことが私をアメリカに連れて行った。連れて行かれた先は、厳格なアメリカ人のクリスチャンの家庭。酒もタバコもやらない。アメリカに行ったら、ビールをグビリとやりたかった私にはちょっと辛かった。典型的な中産階級の家は、木立に囲まれ、家に面したクリークには小さなモーターボートと小さなヨットが係留されていた。生まれて初めて水上スキーも夏休みにはやった。アメリカ経済はピークを迎えていた。ビールが飲めない以外は、幼い頃から憧れていたアメリカンライフがそこにはあった。

一方でアメリカはベトナムでの戦争を拡大。国内では貧富の格差が広がっていった。大学を休学していた一番上の兄は、突然徴兵されベトナムに派兵された。高校の政治の授業に、黒人のクラスメートの兄がやってきて、ベトナムでの経験を語った。笑顔を見せることもなく、彼の目が異様に鋭かったのを覚えている。日本人の多くが憧れていたアメリカの豊かな生活と表裏一体なるベトナム戦争がいつも、頭の中で錯綜していた。それはトラウマと言ってもいい。

大学に進学してもアメリカへのあこがれとベトナムで住民を虐殺しているアメリカへの嫌悪。高校時代にアメリカで持った葛藤は変わらなかった。言語では伝えられない自分の気持ちを写真で伝えたいと思い、カメラマンになりたいと思い始めた。初めてカメラらしいカメラを買ったが、学生運動ばかり撮影していた。一方で、つたない英語力があることで、日本テレビの「素晴らしい世界旅行」の助手でアフリカに行ったりもした。

就職を考えたときに、当時の早稲田大学では朝日などの試験を受けるのに、成績上位者で足切りがあったから、私には無理だと思っていたら、共同通信というところが、成績に関係なく応募できることを知った。これまたどういうわけか受かってしまった。なんと作文の成績が良かったのだと、後に知る。

共同通信に入社してから二年目に、沖縄の那覇支局に転勤した。支局にいることはなく、まだフェンスでしっかり囲まれていない米軍基地内を勝手に取材した。アメリカはいつも自分のそばにあった。北ベトナム軍と民族解放戦線がサイゴン(現在のホーチミン市)を解放した時は、米軍の若い兵士に金網越しに話を聞いた。

本社に戻り米韓合同演習チームスピリットを取材した時には、米軍の揚陸艦に泊まり込み、浦項への上陸作戦を海上から撮影したことがある。憧れのアメリカは軍靴の音とともにいつも私にまとわりついていた。編集委員を最後に、共同通信社を退社するまでに、崩壊したソ連邦、フセイン独裁下のイラクなど、世界で約六十か国に行った。北朝鮮では大きなたんこぶが首にある金日成主席を目の前で撮影している。
アメリカにも何度か取材に行っている。今は大国になった中国には北京支局員として赴任。天安門事件を最初から最後まで見届けている。
オバマ大統領誕生のころからだろうか。いつもトラウマのように私にまとわりついてくるアメリカを、死ぬ前に客観的に見なければいけない。そのためには「今」のアメリカを文字にしてみよう。その気持ちが高まる中で、「偉大なる後進国」アメリカという本を書いた。
 なぜこのウェブマガジンに寄稿したのか。それは拙著「偉大なる後進国」アメリカを売り込みたいという私利私欲からだが、このメルマガを書いているうちに、この本を書きたいと思った根っこに、自分を好きに生きさせてくれた学院の体験があると思い始めた。しかし、この本ではそれについては触れていない。アメリカでの体験も、あとがきで少し触れただけだ。この本はコロナ禍が暴き始めたアメリカの矛盾は、かなり前から始まっていたことを書いている。
 以下のサイトで紹介があるので、読んでみていただきたい。5月14日から主要書店などで販売している。アマゾンでも、偉大なる後進国で検索すれば、購入できます。1500円です。買って、読んでください!
 最後に拙著の前書きを添付します。そして、興味がありそうな知人、友人に紹介してください。
現代書館
http://gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5879-2.ht
紀伊国屋
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784768458792

「偉大なる後進国」アメリカ まえがき

アメリカの歴史は浅い。ペリー提督を乗せた黒船が日本にやってきたころ、アメリカはまだ建国百年も経っていない。日本が鎖国体制に入ったころに、アメリカ大陸はあっても、ア メリカ合衆国という国家はまだ存在していない。アメリカという名前が正式に日本人に突きつけられたのは、黒船がやってきたときだ。アメリカを「米国」と呼ぶのは、アメリカ人をメリケン人(米利堅人)と呼んだことからきている。中国語では美国(メイクオ)だ。アメリカンのアクセントが「メ」にあるので、「ア」が抜け落ちて、耳で聞き取れた発音に当てはまる漢字を当てたのだ。
黒船来航から百年以上経った一九六四年の日本。東京オリンピックで沸き立つ中で登場した東京・代々木のNHK放送センターや国立競技場などが、ワシントンハイツ(米空軍兵舎・家族用宿舎)という米軍基地が返還された跡地にできたことはあまり知られていない。
時は流れてふたたび日本がオリンピックの喧噪に包まれるはずだった二〇二〇年、太平洋をまたいだアメリカは四年に一度の大統領選挙に向けて、混迷を深めている。ではその大統領という漢字表記はいつ生まれたのか?
その英語和訳も日本人がアメリカ人に出会った江戸時代の末期。日米で取り交わされた条約の中に、プレジデントという英語があった。英語の文章を日本語に訳すときに困ったのは、実はこのプレジデント。皇帝ではない。王(キング)でもない。内容から判断すると国の事業をまとめる大工の棟梁のようなものだということで、大をつけて大棟梁。これではあまりにもというので大統領と訳したというのが定説だ。
このように、日常生活に染み込んだ「米国」という言葉でも、その由来をほとんどの日本 人が曖昧にしか知らない。だから、日本の鎖国をこじ開け、近代化への道を歩ませた当時の 新興国アメリカが、現代日本人の生活に深く染み付いていることを日本人はよく理解できていない。
一方で、和製アメリカンポップスが日本の若者の心をとらえて、冲縄生まれで八分の一アメリカンの青年ISSAの歌が日本を席巻した。幼い子どもたちも意味を知ってか知らずしてか、「カーモンベイビーアメリカ」と幼稚園や小学校の運動会などで口ずさんでいる姿を目にする。日本人に染み付いたアメリカ文化はなんなのだろう。
アメリカは軍事、経済の分野で今なお世界の超大国。だが、社会的、政治的には未成熟な国だ。建国して二百数十年以上経つのに、様々な夢と絶望が錯綜する混乱がアメリカには見え隠れする。大西洋に面する東海岸に点在する一三の植民地からあっという間に、太平洋岸 の西海岸まで達する大国として勢力範囲を拡大したことで、国としての法体系と制度が追いつかなかったのだろう。人口は二百数十万から三億数千万に膨張した。
だが、なによりもアメリカ合衆国(合州国)という名前でわかるように、「統一国家」ではなく連邦制国家、あるいは州( State )のゆるやかな集合体をアメリカの創設者たちが目指したことが大きい。
南北戦争という内戦で国家分裂寸前の危機もあった。現在でさえ、一般庶民の「アメリカ ンドリーム」をつぶしていく経済格差の中で、アメリカが分裂するのではないかという話が 現実的に語られている。第二次内戦への予兆さえ起こり始めている。
日米両国は太平洋を挾んだ、大きさは違うが閉鎖的な島国的同質性と後進性を持っている。しかし、なにかが違う。かなり倫理観や考え方に違いがある。アメリカ人が当たり前と思っていることが、日本人には「あれ?」と思える。実は、アメリカは日本とは異質の「偉大なる後進国」なのではないのか?
本書ではアメリカの現在の報道を普通の日本人の目で読んでいく中で、アメリカ人が描いている「自画像」とはなにかを探る。書かれている情報は読者のみなさんがインターネットで直接ふれることができる。本書が、読者のみなさんが納得できるアメリカ人観を作り上げる一助になればと思っている。
※本にも書いていますが、ご批判などは以下のメールアドレスに。よろしくお願いします。

sugayadj@gmail.com