【思い出】「ドイツ語との出会い」 38期 大沢裕次
1987年(昭62)卒 38期 大沢裕次 F組 政治
ドイツ語との出会い
今から40年近く前のことである。高等学院に入学し、第二外国語を選択することになった。
当時、フランス語、ドイツ語、ロシア語という3つの選択肢があったのだが、中学を卒業したばかりの自分には、何を選ぶべきか皆目見当がつかない。親父に相談すると、ぼそっと一言、「西ドイツは伸びているからな」。この一言が私の人生を大きく形作ることになった。
学院1年の夏休み、近所の図書館に通い、文法書を1冊やり遂げた。時代は1980年代前半、エズラ・ヴォーゲル教授の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになった頃だ。
しかし、円相場は今ほど強くなかった。社会人が会社を休んでアメリカ横断ウルトラクイズに挑戦していた時代である。その後、プラザ合意が起きた。高校生の自分には何が起きているのかよく分からなかったが、新聞は、連日、日銀が外国為替市場に介入していることを報じていた。日独機関車論という言葉も耳にした。好調な日本とドイツが世界経済をけん引する機関車の役割を果たすべきとの主張である。
学部に進んでからは、英語会(ESS)に所属したが、第二外国語はやはりドイツ語だった。ドイツ語既修者クラス、いわゆる学院クラスに入ったが、英語やドイツ語が世界への扉を開いてくれるような気がして、ワクワクしながら語学に取り組んだ。ちなみに、先日、紫綬褒章を受章された国民的俳優の内野聖陽さんはESSの1年、後輩である。学部4年になると就職活動が始まった。国際的な仕事に就きたくて、新聞社の外報部を考えていたが、日銀にも興味を持った。時代はバブルの絶頂期である。今では信じられないことであるが、「空前の売り手市場」と言われ、一人で3~4社から内定を頂くのが珍しくない時代だった。平成3年4月、日銀に入行することになった。
その後、何度か転勤も経験し、中堅と言われる年代に差し掛かった頃、職場派遣の海外留学試験に合格した。学院・学部と人より長い間、ドイツ語に接してきたためか、派遣先はドイツであった。現地の語学学校で準備した後、1998年4月、晴れてゲッティンゲン大学経済学部に入学した。仕事に必要なマクロ経済学を始め、国際金融論や金融政策論を聴講した。ゼミにも参加した。
果たして単一通貨ユーロを導入できるのか、英米の学界は懐疑論一色であったが、ゼミでは、ユーロをいかにすればドイツ・マルクに遜色のない強い通貨に育てることができるかといった議論が交わされていたように思う。
言うまでもなく、講義はすべてドイツ語である。これは厳しい。落ちこぼれないよう付いて行くだけで精一杯。早稲田では数学と縁遠い政治学科だったが、ドイツでは統計学や時系列分析など数学を使う科目の方が理解しやすかった。ドイツ語の説明が分からなくても、数式なら理解できる。学院で数Ⅲまで履修しておいて助かった。数学はユニバーサルな言語であることを実感する出来事であった。
留学を終え、1999年4月から日銀フランクフルト事務所に勤務することになった。その年の初めには、単一通貨ユーロが無事導入され、2002年初からは、ユーロ現金の流通も始まった。ついに欧州の通貨統合が完成をみたのである。中央銀行員冥利に尽きる駐在となった。
帰国して数年、東京で勤務したのち、2009年4月、今度は事務所長として再びフランクフルトに赴任することになった。あろうことか、その年の秋に欧州債務危機が勃発した。ギリシャの政権交代をきっかけに起きた金融危機は、瞬く間にアイルランド、ポルトガル、スペインへと波及。マスコミは、これらの国の頭文字をとって“PIGS”と囃したが、職場は多忙を極めた。カウンターパートの欧州中銀も連日、深夜まで執務室に明かりが灯っていた。その後、2012年夏、私の帰国発令とほぼ同時に欧州中銀が国債買い入れプログラムを発表、欧州債務危機は鎮静化に向かった。振り返ってみれば、一番大変な時期に駐在していたことになるが、今となっては良い思い出だ。
私は、来年、55才になる。そろそろ定年が視野に入る年齢である。将来、時間ができたら、ドイツで買い求めたグリム童話やヘルマン・ヘッセの原書に挑戦してみたい。レクラム文庫のカントやゲーテも手元にある。「西ドイツは伸びているからな」。40年近く前の親父の一言が私の職業人生を形作ることになった。
学院でドイツ語と巡り合えた幸運に感謝している。
大沢裕次(38期 F組 柔道部OB)