【OBの活躍】 「第60回甍(いらか)演奏会 (1) ―甍演奏会のDNA―」 9期 野村維男 

                 1958  (昭33)年卒  9期 野村維男 H組 経済

「第60回甍(いらか)演奏会 (1) ―甍演奏会のDNA―」 

 第1回甍演奏会は、私が大学を卒業した年の6月に開催されました。企画段階ではコール・フリユーゲルの、準備・本番ではいらか会のメンバーでした。いらか会の練習場所で新しい演奏会について先輩たちと打ち合わせをしたことを覚えています。大学入学後に合唱を始めた私は、合唱についても合唱界についてもまるで無知で(今でもあまりかわりませんが……)関屋晋をはじめとする大先輩たち、高校時代からの合唱経験豊富な1960年卒、1961年卒の先輩たちの会話について行くことが出来なかったのでしょう、演奏会の企画内容についての議論の記憶がほとんどありません。

 準備段階で私が担当したのはプログラム制作でした。妹とデザイン学校の同級生で、私も付き合いのあったデザイナーの卵に依頼し、紙を折って畳んだ正方形の真ん中に「甍」ひと文字が印された斬新なプログラムが出来ました。デザインした長友啓典はその後に日本を代表するグラフィックデザイナーとなり、デザイン界をリードする存在でした。

 第1回演奏会のための練習が始まり福永陽一郎と「枯木と太陽の歌」に接して、これまで歌ってきた合唱と勝手が違うことにある種の戸惑いもありました。また、三浦洋ーのピアノで、合唱とピアノについて従来の「伴奏」という言葉では表せない関係を私なりに認識したように思います。

 全国大会で上位入賞する合唱団はどこも大編成で、当時の私の狭い視野では、人数が多くないと高い評価の合唱は不可能なのだと思っていました。高校、大学、社会人の3団体が集まって100人以上の合唱団になることで、選曲や評価への壁を乗り越えることになるのではないか、と単純に考えてもいました。事実、全日本合唱連盟創立20周年記念演奏会(1967年)では「甍」の存在によって出演が可能となり、また評価も受けて甍を広く知ってもらうきっかけになりました。

 福永陽一郎は、甍にオーケストラとの共演、自ら編曲したポピュラーミュージック、声楽曲の合唱編曲版などももたらしました。これらのことは、その後の晋友会に至る関屋晋の音楽活動にも、特に「探求心」「挑戦」という形で生きていたように感じています。

2022.8.11 第60回@杉並公会堂

 甍演奏会が発足してから60年。合唱も合唱界も大きく変貌してきました。合唱指揮を専門とする指導層の確立、作曲家による意欲的な合唱作品の発表、おかあさんコーラスなど合唱領域の拡大、海外交流の活発化、各々の方向性で合唱音楽を追求する合唱組織の登場、などを私たちは見てきました。一方では学校教育との関係、大都市集中の影響、最近ではコロナ禍による合唱人口減などの課題も生じています。

 甍演奏会はこのような流れに対応した活動を続けてきたように思います。採り上げる作品の幅広さ、男声合唱曲の委嘱、客演指揮者による演奏などがそれを表しています。また、甍からは清水昭、清水敬ーという現在の合唱界を担う指揮者を生み、さらに、今回指揮する真下洋介、南方隼紀をはじめ新しい合唱団を立ち上げ、コンクールをはじめ様々な活動を展開している意欲的な若い合唱指導者を輩出し続けています。第1回甍演奏会がもたらしたものはこのような「風土」だったのではないでしょうか。

筆者

 当時の「大先輩」たちは30代半ば。その若いエネルギーは時代を超えて新しいことに挑戦する「文化」の形で甍3団体にDNAとして伝わっているように思います。今や「超先輩」の域に達してしまった私としては、若いエネルギーがこれを受け継いでいってくれることを願っています。