【今思うこと】「湾岸危機・戦争」22期 前田 淳

1971(昭和46)年卒 22期 前田 淳 B組 商

「湾岸危機・戦争」

 私は、1971年に学院を卒業しました。今回の投稿は2回目で、前回(2020夏休み増刊号)は、駐在していたサウジアラビアについて書きました(住友商事で石油・ガスを担当)。その駐在中に湾岸危機・戦争が起こりました。今回は、その時の状況を振り返ります。

湾岸危機

 1990年8月2日、世界に衝撃が走った。同日未明、イラク軍がクウェートに侵攻した。中東における対立の構図は「アラブ vs イスラエル」、「アラブ vs イラン」であり「アラブは一つ」の想いでアラブ諸国は結束を保っていた。ところが、アラブがアラブを攻めた。

 当時の原油価格は、クウェートとUAE(アラブ首長国連邦)がOPECの割当量を超えて生産していたので1バレル当たり10ドル台半ばと低迷していた。サダム・フセイン(当時のイラク大統領)は、イラン・イラク戦争(1980~88年)での戦時債務返済および戦争で疲弊したイラク経済復興のため原油価格の引き上げを再三OPECに要請したが、OPECが聞き入れないのでクウェートとUAEを公然と非難するようになった。そして、1990年7月下旬にクウェートとの国境付近にイラク軍を集結し始めた。クウェートはこれを単なる脅しと捉え原油増産を継続した。この7月下旬のある日、サダム・フセインは米国の駐イラク大使を昼食に招き、イラクが軍事行動を執った場合の米国の対応を尋ねたところ、同大使はアラブ間の問題に米国は不介入と返答した(この発言はイラクの軍事行動を誘引し、サダム・フセイン政権を倒すための米国の思惑という説もあった)。これにより、サダム・フセインはクウェート侵攻を決意し、8月2日未明に侵攻を始めた。イラク軍は約6時間でクウェート全土を占領し、8月8日にサダム・フセインはクウェート併合を宣言した。サダム・フセインはそれ以前から、クウェートは英国により不当に分離されたもので、元々はイラクの領土であるという主張を繰り返していた。

 住友商事のサウジ事務所は、アルホバル(東部)、リヤド(中部)、ジェッダ(西部)の3か所にあり、アルホバル事務所は、クウェート事務所の駐在員が陸路避難して来た時に備え、受入態勢の準備に追われていた。私が駐在していたジェッダ事務所では事態の成り行きを見守っていたが、サダム・フセインがクウェート併合を宣言してからは、サウジが次の標的となる可能性が出てきたので、駐在員は国外へ退避することになった。サウジでは、外国人は出国に際して出国ビザが必要であり、駐在員全員がビザを申請することになった。私は、翌週から休暇を予定しており、家族を含めてビザを取得していたので、皆より先に出国することになった。ところが、欧州行きのフライトはどの便も予約が殺到し、漸く予約できたアテネ行きのフライトで家族と共に出国した。

 アテネでは、アテネ事務所のテレックスを使用させてもらい(当時は携帯電話、メールがなく、通信手段は固定電話、ファクス、テレックスだった)、ジェッダ事務所と連絡を取っていたが、数日後にジェッダ事務所長から、駐在員は全員出国した、自分も数日後に出国するという内容のテレックスが届いた。私に対しては、事態の展開が不透明なので予定どおり休暇を取得するようにとの指示があった。休暇先はスイス、ドイツ、オーストリアで最終滞在地がウィーンなので、その時点の状況でジェッダに戻るか、日本へ帰国するか、家族を日本に帰国させ、私だけジェッダに戻るかをウィーン事務所に連絡するとのことだった。

 こうして、私と家族は最初の滞在地のジュネーブに着いたが、ホテルでCNNを見て驚愕した。画面には、私と同じ本部で同期入社のクウェート駐在員がサダム・フセインと話している姿が映し出されていた。この時初めて、私はクウェートの駐在員が家族と共に拉致されイラク国内に監禁されていることを知った。サダム・フセインは欧米・日本の人質の中から何人かを集め監禁生活に何か要望があるか訊いていた。

 その後、私と家族はスイス、ドイツ、オーストリアでの旅程を終え、最終滞在地のウィーンに着いた。ホテルに入るとロビーは世界各国の報道陣でごった返していた。何かあるのか訊いたところ、OPECの緊急総会が開かれ、クウェートとイラクの原油が国際石油市場から消滅したことへの対応を協議しているとのことだった。私は仕事柄、会議の結果が気になり、報道陣に混じりサウジ石油相のコメントを聞こうとしたが、報道陣が多くて近づけなかった。そして、ウィーン事務所には、休暇終了後は家族と共に日本へ帰国するようにとのテレックスが入電していた。

 帰国すると、中東支配人管轄下の駐在員は、カイロとトリポリを除き全員帰国していた。ある日の夜、全員で会食したが、中東支配人が、この場にクウェートとバグダッドの駐在員が居ないことが悔やまれる、と目に涙を浮かべた。クウェートの駐在員は家族と共にイラク国内の軍事施設などに監禁、バグダッドの駐在員はイラク軍の監視下で自宅と事務所間の移動のみ許されていた。社内では、人事本部を中心に対策会議が毎日開かれ、現地情報を収集するためバグダッド事務所との国際電話を試みたが、繋がるまでに1時間以上要し、繋がっても1~2分で切れるため、これを何回も繰り返し作業は連日深夜に及んだ。退避していた駐在員は、それぞれの出身本部で現地取引先との連絡、日本の取引先訪問などに時間を費やした。そして、イラク軍がクウェートを占領したまま中東情勢が不安定な中、10月には駐在員は家族を日本に残し、それぞれの駐在地に帰任した。

 国際石油市場では、OPECが緊急総会で増産を決議したことから、クウェートとイラクの減少分は完全に相殺され、市場の混乱は最小限に食い止められた。サウジには、米軍を中心とした多国籍軍が駐留し、女性兵士が腕を露出したまま軍用トラックを運転する姿に宗教界から非難の声が上がった。また、多国籍軍の戦闘機、軍用機、戦車、トラック、空母を含む艦船に供給するジェット燃料、軽油、重油の不足が懸念され、国営石油会社が数回に亘り買付入札を行い、サウジが石油を輸入するという前代未聞の事態が生じた。

湾岸戦争

 1991年1月17日未明に多国籍軍のイラク空爆が始まった。1月15日に行われた国連事務総長とイラク外相の会談が物別れとなり戦争突入が必至と見られ、翌16日にはジェッダ市内のスーパーからミネラルウォーターが一斉に無くなった。こうした中、アルホバルとリヤドはイラクのスカッドミサイルの射程圏内なので、それぞれの駐在員はジェッダに避難していたが、1月16日早朝に東京の本社から、3所長を残して全員国外に退避するよう連絡があり、私は1月17日未明の便でバンコク経由帰国することになった。空港で出国手続きを終え搭乗を待っていたが、いつまで経っても搭乗アナウンスがなかった。後に分かったことだが、ジェッダ空港に駐機していた多国籍軍の軍用機が、イラク空爆に備え前線基地である東部のダーラン空港に移動するため、その間、民間機の離着陸が禁止されていた。結局、2時間以上遅れたフライトは目的地のバンコクに向け飛行していたが、到着間際にバンコクではなくジャカルタに向かうとの機内アナウンスがあった。理由説明は無かったが、同便は折り返しジェッダに戻るサウジ航空機で、離陸直後にイラク空爆が始まりサウジの空港が全て閉鎖されたため、そのままバンコクに留まることになるが、サウジ航空機に対するテロ攻撃を懸念した機長が、イスラム友好国であるインドネシアに行先を変更したと思われる(1989年にタイでサウジの外交官4人が殺害されたが犯人が捕まらず、サウジはタイの捜査が不十分だと抗議し、サウジとタイの外交関係は断絶に近い状態だった)。その後は、何とかフライトを乗り継ぎ、1月18日早朝成田に着いた。

 戦争は、2月24日に多国籍軍が地上戦に突入し、同27日にクウェート市を開放、そして、3月3日に暫定休戦協定が結ばれ終結した。駐在員は3月下旬にそれぞれの駐在地に帰任した。

あとがき

 戦争はいつどこで起きるか分かりません。ウクライナに一日も早く平和が訪れることを祈りながら、筆を置きます。