【今思うこと】「心の故郷」 11期 島村俊治

1960(昭和35)卒 11期 島村俊治 D組 経済

「心の故郷」  

 令和5年10月28日、選抜高校野球の代表を目指す秋季東京都高校野球の準々決勝戦、八王子球場の放送席で私は明日からの準決勝、決勝の放送に備えて取材をしていた。

我が母校早稲田大学高等学院が創価高校との対戦、「勝って欲しい」と願いつつも、学院が勝てば平常心で放送席には座れないからと複雑な心境だった。試合は6回迄2点を追う展開だったが終盤の大量失点で2-11で敗れ去った。
 以前に以前に比べて学院野球部は東京都大会の予選でかなりいいところまで進めるようにはなってきているが甲子園には届かない。東京六大学の付属高校で甲子園に出ていないのは学院だけではなかろうか。ベスト4を逃した残念な思いと「これで放送できる」と相反する複雑な心境だったのだ。放送席は平等に、応援放送はしないが私の信条なのだ。オリンピックで鈴木大地、岩崎恭子、清水宏保と三人の金メダルを実況をしたのだが「頑張れ」とは実況すまいと常に自分に言い聞かせている。戦っている選手やティームの素晴らしさ、スポーツの神髄を大切にしたいからなのだ。勿論、TVをご家庭で見て応援している方々はその限りではなく「ガンバレ、ガンバレ」でOKなのだ。

 NHK時代甲子園の実況アナウンサー約30年、221試合の実況、インタビュー、リポートを含めると365試合を伝えて来たのだが待てど暮らせど学院は甲子園に来なかった。

 実はNHK時代と現在のフリーを合わせて60年のスポーツ実況の原点は小中学校と学院時代にあったようだ。野球少年だった私は小学生の頃、学校から帰るとラジオのプロ野球中継を夢中になって聞いていた。ただ聞くだけではなく縁側や庭でスコアーをつけ、好きな選手の打撃や投球フォームをまねしていた。千葉茂、青田昇、川上哲治のそれぞれ特徴のある打撃フォーム、藤本英雄、別所毅彦の整った、豪快な投球フォーム、島村少年はスターになったつもりだったのだろう。中学生になると広岡、小森の三遊間に憧れ早稲田一筋、田園調布で育ったので周りは慶応びいきが多かったのだ。学院に入ると入学式の前から野球部の練習に参加していた。
 当時、大学構内にあったグランドで大学の練習と一緒になり、遠くから森徹がいるとワクワクしたものだった。ただ、いくら野球好きでもプレーはやってなかったので練習について行けず、あっさり二か月程でギブアップ、諦めも早かった。野球部を退部すると級友の勧めで何と男声合唱のグリークラブに入部した。ここで素晴らしい出会いがあったのだ。

 指揮者の関屋晋さん、学院、大学の先輩で大阪でサラリーマンをやりながら週に一度学院に通ってきて指揮を執る方だった。小柄でカッコイイ指揮ぶり、話も面白く私達部員は「おやじさん、おやじさん」と慕い続けた。学院のグランドの片隅で夕映えの中、おやじの指揮に合わせてアメリカのフォークソングやジャズ風にアレンジされた曲を歌い上げハーモニーさせていた。時折、おやじの叱責が厳しかった。
 私は学院グリークラブ、大学コールフリューゲルと歌い続け、ステージを企画して音楽の仕事に興味をもち、当時のTV番組・音楽バラェテイの「夢で逢いましょう」に憧れた。就職は音楽のディリクターになりたい一心でNHKを希望、幸運にも入局できたのだ。
 ところが番組のディレクターとは違い何とアナウンサーにさせられてしまった。新人アナウンサーとして鳥取に赴任したが日々不貞腐れ、毎晩飲み歩く駄目な新人だった。やがて転機は訪れた。

 昭和39年11月、選抜高校野球を目指す中国地方大会が鳥取の米子で開かれ、私は先輩のお手伝いで放送席の横でスコアーを付けた。忘れもしない試合は岡山東商業対関西高校、平松正次と森安敏明投手の凄まじい投手戦、スポーツのドラマの神髄がそこここに散りばめられた名勝負だった。平松投手の見事なコントロール、森安投手の激しいアンダースロー、後の二人の生きざまも殿堂入りと黒い霧で球界追放と対照的なドラマティックな人生だった。球場は米子の湊山球場、緑に囲まれ、外野の後方に中海が広がっている。激しい応援合戦が試合を盛り上げる。「スポーツアナウンサーならやってみよう」
 数日後、米子と鳥取を結ぶラジオの駅伝放送が二日間にわたって行われ、私はラジオの中継車に乗り先輩を助けて後続のランナーを追い実況する放送車を任された。農村の青年、高校生が必死にタスキをリレーする姿に心打たれ、感動しつつ夢中で喋り捲った。放送が終わり中継車を降りると運転手さんが声を掛けてくれた。「シマちゃん、良かったよ。先輩より良かったよぉ」 駄目な新人アナが初めて褒められたのた。これがスタートでした。

 我が身を振り返ると不思議な気持ちになる。音楽番組を創りたい、アナウンサーは嫌だと言っていた青年が何と今年で60年スポーツ実況のマイクを握っている。NHKを退職しフリーでスタートする際、放送席を共にした恩師川上哲治さんの言葉「シマちゃん、成り切ってみたらどうかね」を追い求め続けている。そして、学院時代・おやじさん関屋晋指揮のもと歌い上げたハーモニー「心の故郷」は今でも実況に生かし続けているのです。
 

島村俊治 1941年6月25日生まれ

現在 Jスポーツ等でスポーツ実況、国士館大学大学院客員教授、スポーツ実況、執筆、教育、講演等を続ける