【思い出】「フィリピン駐在時の経験」 25期 中川英洋

1974(昭和49)年卒  25期 中川英洋 I組 工経

「フィリピン駐在時の経験」

 同窓会理事の山口さんとお知り合いになる機会があり、メールマガジンに投稿させて頂く事となりました。1974年学院I組卒業の中川英洋と申します。

 現在は市川稲門会の会長を拝命し会員凡そ240名の稲門会の運営を行なっております。多くの先輩・後輩の協力を得て千葉県で一番会員数の大きな稲門会にまで成長しております。市川に御在中の読者の方居れば是非ともご連絡下さい。さて、1979年に理工・工業経営を卒業後、総合商社に入社しその後20年程度の海外駐在を経験しました。この間体験した海外ならではの経験を投稿させて頂きます。

 

― 我が家の前で発生した銃撃殺人事件(マニラ) ―

 最初のお話しから刺激的な話題です。

 ある朝、通勤前の早朝でした。我が家の真ん前で銃撃があり、現地人一人が亡くなるという事件が起こりました。

 ご理解頂く為にマニラでの駐在員生活を手短に説明します。決して治安が良くないマニラの駐在員はヴィレッジという高い塀で囲まれた地域の一軒家に住むケースが多くあり、我が家もそうでした。ヴィレッジの広さはかなりあり、市川で言えば一つの町程度の大きさで、出入りは警備員が監視しています。

 何故、治安の保たれたヴィレッジ内で銃撃殺人事件が起こったのか?

 我が家の前には、ゼネコンの支店長がお住まいでした。マニラでは駐在員は運転者付きの社有車で通勤します。ゼネコン、銀行、商社などの現地トップはより安全を担保する為に運転手とピストルで武装したボディーガードを乗せる事が一般的です。

 さて何が起こったか? 我が家の前のゼネコン支店長の運転手とボディーガードが言い争いになり、ボディーガードが持っていたピストルで同僚の運転手を撃ってしまったのです。この話で実感したのは、ヴィレッジの治安が機能していた、つまり外部からの侵入者の犯罪ではなかったという安心感でした。所変われば感じる事も随分と変わるものです。因みに銃弾の一発は我が家の外壁に当たっていました。以上マニラのヤレヤレ話でした。

 

― マニラ日本人学校の実情 ―

 マニラ駐在の2年目(1991)に長男が小学校入学年齢になりました。

 日本人学校に入れるのが普通でしたので、当家もそうしようと思っていたのですが、少し学校の事情を調べると驚く事に生徒の半数近くがフィリピン人の家庭で生まれた日本人とのハーフの生徒さんである事がわかりました。フィリピン人からすれば、日本人の血が入っており、日本語が喋れるようになれば、将来のメリットがある筈という、半ば日本語学校の感覚で入学させているようでした。

 日本人学校は外務省の管轄であり、そのようなハーフの子弟の入学に制限をかければ、外交問題に発展する恐れもあり、入学制限を実行出来ないという実情もありました。結果として日本人学校の教育レベルの維持に大変苦労されているというのが実態でした。この辺りは後年深田裕介氏により文芸春秋にも寄稿されていました。

 結局我が家の長男は日本人学校ではなく、アメリカンスクールに入学という選択をしました。真実は不明ですが、当時年間1万人程度は日系のハーフが生まれていると言われているほどでした。

 

― ピナツボ火山噴火 ―

 マニラ駐在2年目の1991年に20世紀最大の規模となったピナツボ火山の噴火が起こりました。

 この火山はマニラの北西100キロ程の位置にあり、偏西風の向きもありマニラへの影響はほとんどありませんでした。しかし、台風の影響で風向きが変わり一夜のみでしたが、マニラに火山灰が降りました。熱帯のマニラが白一色の雪景色になった様でした。ピナツボの噴火は微小な火山灰が大量に出て、その灰が長く空中に漂うという特徴があった様です。そこで何が起こったのか?想像もしない空港の封鎖でした。空中に浮遊した微小の火山灰をジェット機のエンジンが吸い込む危険を回避する為の措置でした。閉鎖は二週間に及びました。この空港閉鎖は貿易業務に多大な影響を与え商社の業務は相当程度低下しました。 

 たまたま、この時に出張で来ていた人間も足止めとなりました。休暇を利用しマニラに来ていた人間も足止めとなりました。知り合いに会社に申告せずに赴任地に戻る途中マニラに一泊し足止めを食らった不運の男がおり会社への説明に苦労していた事が今では懐かしい思い出の一つになっています。