【思い出】「ラグビー佐々木親子に助けられて」15期 高谷尚志

                                                                                                                                                                  
1964(昭和39)年卒 15期 高谷尚志(たかやなおし) I組 工経

「ラグビー佐々木親子に助けられて」 

  小生、 早大を卒業してほどなく、 昭和45(1970)年10月、毎日新聞社に入社、 そのまま毎日新聞静岡支局で勤務することになりました。その頃 、静岡支局には小生より5年ほど年上の岡本禎一さんという記者がいましてずいぶんお世話になりました。

  岡本記者は早大在学中、 自動車同好のサークルに所属してまして、文学部国連ビルの裏側の空き地あたりで修理したり分解したり、時にはロードで遠征を試みるなどの部活をされていました。ある年ヨシムラという新入生が入会してきました。 名前がサクジだったので、岡本さんは最初からサクジ、サクジと呼んでいました。そう、この方が後年、早稲田にエジプト考古学ありと世の中に大きくアピールした吉村作治先生。多分この時磨いた運転の技術でエジプトの砂漠を駆け回っていたのだと思います。

  さて岡本さんは、静岡支局から毎日新聞東京本社出版局に転勤となり、サンデー毎日編集部で活躍していた時、東京相互銀行(その後東京相和銀行現在は存在してません)に転職しました。ある時の仕事は東京相互銀行の融資先経営幹部の方々に広く世の中の事情を知っていただくためにしかるべき講師の方をお招きしてのセミナーの開催でした。吉村作治先生も講師になりました。受講者の経営幹部の方々、 あのテレビで超有名な吉村先生のお話をライブで聞けるというので大喜び、さすが東京相互銀行 ‼

 白熱の講義前半が終了して、中休みに入ろうとした時です。 吉村先生、突然マイクを手でふさぎ、 録音は止めてますよね、私はここで皆さんに聞いていただきたい。私が一応これだけ多くの人に知られるようになった(ここの表現は正確ではなくてだいたいと思ってください)というのに、いまだに私のことを「サクジ」「サクジ」と呼ぶのが約一名いる。もちろんこれは岡本さんのことで、 以後岡本さんが吉村先生に声をかける時の呼び方がどう変わったのかについて、小生ついに聞き漏らしております。 これから岡本さんの静岡時代のある体験を紹介するのですが、 読者の皆さん 、オカモトってナニ、ダレってなってしまうのは当然ですので、一応こういう方という紹介代わりに吉村先生に登場いただいたわけです。

 銀行員になっても岡本さんとはしばしばお話しする機会がありまして、ある時静岡の県政記者クラブの話となりました。県政というのは知事選挙、知事部局の取材、 衆参両議員県議会議員の取材と選挙が主なフィールドと思ってください。最近では静岡の知事は早大元教授の川勝平太さんでリニア新幹線の静岡工区を認めるの認めないので全国的に有名になりましたね。

  岡本さんが言うには、 県政記者クラブにいた時、ヨミウリのシライシちゃんがさ。(「ちゃん」というのは「さん」と「くん」の間ぐらいの敬称だと思ってください)どうしてるのかな。

  そこで、小生はシライシさんはヨミウリの社長です。確か読売社長が退任直後、スイス大使になったと言って政府とマスコミの関係はこれでいいのかとかで騒がれたことがありましたが、これがそのシライシちゃんだったと読売のOBの方から今回指摘をいただきました。

 岡本さんはびっくりしておられましたが、 次に、アサヒのキミワダちゃんね。そこで小生、そうたくさんない名前ですので、岡本さんの同じ年頃のキミワダさんなら、朝日新聞からテレアサの社長次に会長。 岡本さんはさらに、 エッ。

 でもさすがに岡本さんはサンケイのヌカガは知ってました。東京で静岡支局勤務経験者の会合が新聞放送通信社横断で開かれた時、静岡新聞も東京支社から駆けつけてましたが、岡本さんの声かけでサンケイのヌカガ衆議院議員が挨拶に来ておりました。小生も静岡県政記者クラブでこれから東京に転勤になると挨拶に来られたヌカガ記者を見かけております。このヌカガさんが衆議院議長の額賀福志郎氏であることは申すまでもありません。

50年前の静岡県政記者クラブ野球チーム

 2024年5月、当時静岡県政記者クラブに出入りしていてマドンナをやっていた女性と50年ぶりに静岡でお酒を飲みましょうか、となりましたところ、その女性が当時の記者クラブ野球チーム(警察担当記者クラブと合同)の写真を持ってきてくれました。早速スマホで複写をさせてもらいましたが、前列左から3人目、黒の野球帽がヌカガ議長。

  東京に戻ってみると何の偶然か、 Facebookの女性の友人が額賀議長と何か勉強会をしたとかでその名刺を掲載しておりました。やはり三権の長ともなりますと違いますね 。大きく太い字で肩書きと名前だけ。

 野球チームの大勢の記者仲間が写ってるわけで、 中にはもう故人の方もいらっしゃいますが、皆さんそれぞれにヌカガ衆議院議長の活躍を祈念しておられることと思います。とりわけヌカガ議長が国会開会式で読み終えた式辞を天皇陛下に手渡してしまったり、女性宮家問題で上皇后の美智子さまより、 あの件よろしくねと言われたとか言われてないとか(週刊新潮2024年5月30日号)の問題に巻き込まれたとしても、ここは大きな気持ち暖かい目でヌカガ議長を見守りましょうという特別な思いをされているものと思われます。

 

  さて岡本さんの目に 、ヨミウリが社長、アサヒがテレアサ の社長から会長。サンケイ が衆議院議長 。となりますとマイニチはどうした、バランスが悪いじゃないの。

  その頃、毎日静岡支局は支局長にササキ、デスクにササキのササキ・ササキ体制でした。支局長ササキは警視庁記者クラブで鬼キャップとうたわれた人、デスクのササキは同じく警視庁詰めの敏腕事件記者。多分自分の水準まで若手を鍛えるということだったのでしょう、支局では鬼デスク。岡本さんともう一人の若手記者など、手ぶらじゃ夕方、支局に帰れない、軽微な交通事故案件を記事にするのは俺だ俺だと取り合っていたそうです。
 もう岡本さんが他界された後でしたが、TBS(ヨミウリ、テレアサを含め持株会社は適当に当てはめてください)の社長人事を見ておりますと、タケダからササキへ。新社長は早大ラグビー部で活躍し父親は毎日新聞記者とある。 まさかあの ササキじゃないよねと若干調べてみますと、 まさにそのササキ、 鬼デスク。ということは先ほどの静岡県政記者クラブ、ヨミウリは社長、アサヒはテレアサ社長から会長、サンケイは衆院議長のラインナップを考えますと、あの頃毎日には県政記者クラブではないものの、支局のデスクのそのご子息がTBS社長。

 若干変則のラインナップではありますが、 何かバランスが取れていた。 あちらにおられる岡本さんに手を合わせながら報告したものです、これ学院のメルマガですから 、何でこの話が学院のメルマガに登場するのか。実は私、TBS社長ササキは早大ラグビー部とはすぐに知りましたが、 学院ラグビー部とはまるで知らなかった。前回(2024年春号)のメルマガ、日本舞踊の30期 西川均 (五代目 西川箕乃助)氏のインタビュー記事を読んでいた時です。

 <学院2年の時に、ラグビー部が花園出場を果たしました。現TBSホールディングス社長の佐々木卓さんが主将だったことを覚えています。國學院久我山高校と対戦した東京予選の決勝を自宅でテレビ観戦しました。強豪相手に終始押されながらも僅差で勝利し、感激しましたね。当時の学院そして早稲田大学といえば、ラグビーがシンボリックな存在だったと思います。>

 これを読んでびっくりしました。 そこで学院同級生で学院ラグビー部の籠島雅雄君(卒業後は講談社で長いこと文芸誌「 群像」編集長)に、 メールをしましたところ、<花園出場をかけての國學院久我山との試合は秩父宮に応援に行きました。学院初の花園出場。 佐々木卓の代のキャプテンは、寺林努です。二人は、大学でも一緒で、寺林はキャプテンでした。佐々木卓は、中国特派員としてテレビの画面に出てきたのを記憶しています。> 学院ラグビー部から早大ラグビー部 、しかも メインで活躍する。小生の頃にはなかったような。
 さて学院で先輩、毎日新聞で先輩に当たる堤哲さんが毎日新聞OB用HPに同僚記者の追悼記事を載せて、その方の写真としてある時代の警視庁毎日記者クラブの集合写真を載せておりました。その中に佐々木パパも写っていると説明されていたのですが、残念ながら小生が判別できたのは当該記者とヒゲに特徴のある記者の2人だけ。
 そこでおおよそこんな内容で学院メルマガに寄稿するのですが、佐々木パパってどれでしょうかと、問い合わせて教えていただいたのが上の写真の矢印1。 佐々木パパは東京本社では時々お見かけしましたが、セクション は違い一度もお話はしたことはありません。その頃はもう髪が薄くなっておりましたので、矢印①はもうまるで別人。ついでに矢印②は毎日新聞の花形記者・内藤国夫氏。

 堤さんは、 佐々木パパのご子息がTBS社長になられた時に次のような記事を毎日新聞 OB HP に寄稿しています。

 <佐々木新社長は、早稲田のラガーマンである。早大高等学院3年だった1977(昭和52)年、花園の全国高校ラグビー選手権大会に初出場。学部(法学部)に進んでも、ラグビー蹴球部でもまれた。身長168cmと小柄ながら、4年生の早慶戦(1981年11月23日)、早明戦(12月6日)に9番SH(スクラム・ハーフ、筆者の追加で両チームのスクラムに楕円ボールを入れる人)として出場、慶応には25―16、明治には21―15で、いずれも快勝している。早明戦に勝利したときの新聞の見出しは「荒ぶる涙、大西魔術」。名将・大西鉄之祐監督が17年ぶりに3度目の監督になった年である。

 オヤジの叶さんは、私が社会部にあがって、サツ回りをしたときの警視庁キャップ。鬼の叶さんがいつの間にか、早稲田ラグビーのファンになっていた。息子の試合は必ず観戦していた。私が高校・大学を通じて息子の先輩だと知って、「大西先生はスゴイ。都会っ子を鍛えて、花園に連れて行ってくれた。卓が4年生のときの早明戦は、ワセダが4連敗中。予想は圧倒的にメイジ優勢だったんだ」と、熱く語っていたことを覚えている。>

 佐々木パパ、 ご子息のラグビーを全試合観戦、 鬼デスク 鬼キャップの静岡支局や警視庁と違って、 優しい パパをやってたのね 。

 というわけで、あの頃の静岡県政記者クラブ、ヨミウリ、アサヒ、サンケイそれぞれカクカクのポジション就任者を輩出、遅ればせながら佐々木親子の活躍でマイニチも並んだというお話でした。なお佐々木卓氏は2024年6月からTBS会長です。
 ヌカガ衆院議長がまだ現職のうちに このテーマを取り上げました。