【学院の思い出】「学院の先生方の思い出」 33期 上野隆彦

 1982(昭和57)卒 33期 E組 上野隆彦 教育

(東京都立 豊多摩高等学校 主幹教諭) 

 

学院の先生方の思い出       

皆さんこんにちは。私は学院33期E組の上野隆彦と申します。都立高校の英語教員をしています。学院の同級生で教員になったのは私を含めて2人で、もう一人は2023年11月10日号メルマガ執筆者の今野淳一君です。今野君の口利きで今回書かせていただきました。

さて、卒業後は直接的な関わりがなくて現在に至りますが、学院は私の心のふるさとです。卒業生であることを、ある意味、大学以上に誇りにしています。今日でも学院が隆盛を誇っているのは卒業生としてうれしい限りです。時がたつにつれて思い出が浄化されていくためか、牧歌的で幸せだったことしか思い出せません。でも当時はそれなりに葛藤しながら必死に生きていたと思います。

学院についてはあふれる思い出がありますが、紙面の都合上、学院の先生方にしぼって語ることにいたします。以下は私の中のまったく個人的な思い出であり、記憶に誤りや脱落があるかもしれません。お気づきの点がございましたらご指摘いただければ幸いです。私としてはどの先生に対しても「敬慕の気持ち100%」ですが、表現に失礼な点がありましたらおわびいたします。

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英国紳士的な風貌の本間武先生(英)は温厚な中にもきびしさがあり、予習が不十分のときは目が合わないようにうつむいておりました。宮田健吉先生(英)はスラッシュリーディングの先駆け的授業をなされ、生徒たちを鼓舞する姿が情熱的でした。斎藤靖寛先生(英PP)にはLL教室で授業を受けました。小島孝平先生(英)はかなりお身体が衰弱しておられ、授業中に何度か胸を押さえて苦しまれたのでみんなで大いに心配したものでした。教育実習の指導教官は将棋の大山康晴名人似の城谷重充先生(英)でした。

 

1年生の入学直後の授業で、野中久武先生(英)に「この文の特徴は何だ?」と質問され、答えられずにいたら、すかさずクラスのだれかが「分詞構文です」と答え、聞いたこともなかった文法用語にびっくり。中学時代に英語力に抱いていたいささかの自信が、入学早々に一瞬にして崩れたのを覚えています。今までの人生の中で、学院生は最も優秀な集団だったと自信をもって言えます(大学に進んだとき、失礼ながら、正直、一般学生のレベルが低くなったと感じるほどでした)。

 

内藤磐先生(国)と大ベテランの三浦和雄先生(国)には古典を教わりました。岡本卓治先生の「檸檬」の講義、重鎮の石丸久先生の「山月記」、「こころ」の授業が特に心に残っています。Es irrt der Mensch, solang er strebt.(人は努力するかぎり迷うものだ)というゲーテの言葉も石丸先生から習いました。漢文は週1コマしかなかったけど、響きのカッコよさに惹かれました。谷中信一先生(漢)の「暗記を軽視するな」という言葉を私は肝に銘じていて、生徒にも伝えています。人間味あふれる伊藤助松先生には作文を教わりました。先生がガリ版で作ってくださった文集は大切に保管してあります。国語は佐久間保明先生にも習いました。

 

学院長だった長島健先生には東洋史を教わり、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉がなぜか焼きついています。水野紀一先生(日本史)は飛鳥時代くらいからなかなか先に進まないのが印象的でした。マシンガントークの国弘敏先生(地理)と、ユーモラスな冷牟田修二先生(世界史)は特に情報量が膨大で、ほんとにこれ全部覚えなくちゃいけないのだろうかと途方にくれました。学院の先生方はどの方も学究肌で、ありえないほどの圧倒的な博識で生徒を圧倒していました。

 

第二外国語はドイツ語を選びました。独作文が苦手だった私は、伴一憲先生の授業の前はパニックでした。たいへん温厚だけどたまに毒舌の小西邦雄先生、授業をつぶして野球を一緒にやってくれた金子昌弘先生にもドイツ語でお世話になりました。

 

私が在学したのは修学旅行が中止になった数年後でしたが、飯島洋一先生(政経)からは往年の学院の「九州一周修学旅行」のお話を拝聴しました。旅行復活を望んでいた我々は大いにうらやましがったものです。浅沼正明先生(日本史)は入試のときの面接官で、授業では教わらなかったのに気にかけてくださり、気さくに声をかけていただいて嬉しかったです。

 

小久江満先生(数)は芸術的な授業で、猛スピードながら、完璧に整理された頭の中身をよどみなく説明される職人技は、聞いていて心地よい限りで、あこがれました。数学は温厚で理知的な近藤務先生、少しとぼけた味のある藤沢祐治先生にも教わりました。クラスが騒がしかったとき、山岡幹雄先生(数)には何度かお叱りを受けた記憶があります。すみませんでした。

 

三嘴秀郎先生からは「将棋部員なら、私は顧問だから少し点数をおまけしてあげる」と励まされ、苦手な物理でかろうじて赤点がつかなかったのは、将棋部所属のおかげかも?と感謝しました。岡野啓介先生(物理)は元気で迫力があり、声が大きくて楽しい雰囲気の授業でした。独特のオーラとナゾのギャグを飛ばす石井英二先生(地学)。上野幸彦先生(化学)はよく笑う優しい先生でした。格調高い哲学的な講義をされる小野裕二郎先生(化学)は、当時設立されたばかりの本庄高等学院に転出されました。

 

美術は米倉正弘先生に、生物は多ケ谷卓爾先生、体育は矢野尊之先生(剣道)、北島良男先生(ハンドボール)、栗山雅史先生萩原一次先生杉山信先生、そして我が担任の福島正秀先生に教えを受けました。福島先生は大学卒業後の進路について相談したときに軽いフットワークでわざわざ私の荻窪の自宅までお越し下さりました。冗談の好きな気さくな先生でしたが人を見抜く目は鋭く、私の心底も見抜かれていました。お亡くなりになったと聞いて本当に悲しいです。

 

冨田和男先生には倫理社会と選択科目の「思想Ⅱ」を教わりました。現代社会との関わりの中で先哲の思想がいかに生かされるべきであるかを常に問いかける先生の授業や内省的で誠実なお人柄に私は強く惹かれました。冨田先生の影響をまともに受け、私は高校教員をめざし、当時は学年全体で1ケタしか志望者のいなかった教育学部(英語英文学科)に進学しました。学院生活がなければ今の私はありません。冨田先生とは年賀状のやりとりをさせていただいており、2016年には、先生の研究の集大成 『ディドロ 自然と藝術』 という400ページの大著をいただきました。難解で読みこなせていないのですが、家宝にしています。

 

以上、お世話になった先生方について、思い出すままに順不同でお名前を挙げさせていただきました。他にもお名前を思い出せない先生方が何名かいらっしゃいます(たいへん申しわけないです)。書ききれない点や不十分な記述をおわびします。自分も定年を迎える年齢となりました。お世話になった先生方が学院にもう残ってらっしゃらないのは残念ではありますが、読者の皆様と少しでも思い出を共有できれば幸いです。長文失礼しました。ありがとうございました。