【思い出】「学院で、 満州某重大事件、早稲田の政治家・中野正剛、 近衛文麿、荻外荘とその外」15期 高谷尚志(たかやなおし)
1964(昭和39)年卒 高谷尚志(たかやなおし) I組 工経
学院で、 満州某重大事件、早稲田の政治家・中野正剛、 近衛文麿、荻外荘とその外
学院同期のS君は仕事の関係で北海道K地域と深い繋がりがあります。
ある時小生が、新聞記者の頃取材で知り合った外資系金融機関の広報部勤務の才媛、確か北海道K地域かS地域がどうしたとか言ってたな。
S君は身を乗り出して、それはタカヤ 、確認した上、北海道K地域ならば是非一度。
その才媛はN子さんといい、確かめてみますとS地域で幼い頃育ちやがてK地域に引っ越したことが分かりました。S君の仕事はK地域では大変皆さんからの信用も厚く尊敬を集めていたので、N子さんも、まあ、あそこでお仕事の方とタカヤさん、お知り合い、もうこちらからも是非。
というわけで東京で北海道K地域の会が開かれるようになりました。
コロナも明けた頃の会食で 、S君は学院の頃も荻窪住まい、現在もところ番地こそ違うものの荻窪在住。その荻窪で、近衛文麿の住居が修復され一般公開されるので、
荻窪でランチの後、見学に行きませんか。N子さんは、女子大に通ってた頃、荻窪は通過駅で時々出没していたらしく詳しい。では私がいいお店を探して。話はとんとんとんとまとまり、2025年4月の土曜日、荻窪駅前付近でランチ、
その後徒歩約15分、旧近衛文麿邸「荻外荘」見学ツアーが行われました<写真1>。

<写真1>見学者多数の「荻外荘」
GHQに巣鴨に出頭するように命令され、出頭日の早朝、近衛文麿が青酸カリ服毒自殺した屋敷ですから歴史遺産のようなものですが、今回はその報告ではありません。
ただN子さんは、近衛文麿が自殺した部屋が隣の部屋から見ることはできるのですが、説明板に戦後の一時期吉田茂が荻外荘に滞在していた時、この部屋を寝室に使っていたと書いてあるのを見て、アラいやだ、自殺した部屋で寝泊まり。幽霊か亡霊かが真夜中にと、まぁ普通の人は考えるわけで、吉田茂の胆力に感心しておりました<写真2>。

<写真2>服毒の部屋
見学が終わり自宅に帰ってから少々荻外荘について調べてみました。高名なる工藤美代子さんの『われ巣鴨に出頭せず
近衛文麿と天皇』も初めて読みました。そういたしますと、エツ、そうだったの、という驚くべき事実に出会いました。
近衛文麿にお妾さんがいたことは、まあ以前よりそれとなく知っておりましたが、実は荻外荘移転に伴い、お妾さんハウスも移転していたというのです。荻窪「荻外荘」購入移転は昭和12(1937)年11月か12月、それまでの私邸は新宿区下落合。その時点では近衛文麿は首相ですから永田町の首相官邸も住まいにしていたかどうかは別として活動の場であったことは確かです。どうやら永田町の近衛文麿活動の場から荻窪の荻外荘に帰るにあたり、道の途中と言うか、遠回りにならないような地点が選ばれた。それまでのお妾さんの住まいは下谷池之端で、具体的には、現在の横山大観記念館近くです。永田町池之端荻窪となれば遠回りですね。ではその選ばれた地点とは。ここから先は後に登場いたしますが、なぜ、学院のメルマガに紹介するのかの事情もそこで明らかになります。
現職の首相が私邸に帰るならともかく、首相官邸からお妾さんハウスに泊まるとか立ち寄るとか、これって可能だったんでしょうかね。その辺は定かではありません。ただ昭和15(1940)9月、日独伊三国同盟(この時第2次近衛内閣)を記念して日本橋の三越で写真展が開かれた時お妾さんとその間にできた娘を連れて
近衛文麿は見学に行ったというのですから、あの頃は緩かったんですかね。
この学院のメルマガに初めて書かせていただいた時、そのテーマは学院の同じクラスで渋谷区立代々木中学出身の島野一彦君
、1学年上に吉永小百合さんが在籍し、代々木中学グラウンド側裏門<図のB>から歩いて30秒ほどの吉永小百合さんのお宅<図のA>を島野君に案内してもらった顛末でした。
実は島野君とは吉永小百合の話だけではありませんでした。昭和初期わが国をその後の対中国戦争 大東亜戦争 太平洋戦争
第二次世界大戦に引きずり込む発端となったある重大事件について実に生々しく話をしていたのでした。
それは代々木中学の歴史の授業時間でした。昭和3(1928)年6月4日満州某重大事件。
満州の軍閥張作霖は弱小勢力だった昔は、日本の関東軍(南満州鉄道警備のための日本軍)の言うことをよくきいていたものだが、力をつけてくるにつれ独立志向を強め、今は北京で皇帝気取り。一方
中国国内でも張作霖には我慢がならないと決意した国民党の蒋介石が南の方から北京に攻め上がろうとします。
いわゆる北伐。張作霖は慌てて列車を仕立てて、満州に逃げ帰ろうとするのですが、満州の関東軍は張作霖のような反日勢力が大挙して満州に戻って来たら収拾がつかなくなる。この際張作霖を亡き者にしてしまおうと画策し、張作霖が乗った列車を満州は奉天(現瀋陽)付近で爆破してしまうのです。張作霖ほどなく死去。この事件を画策したのが関東軍高級参謀の河本大作。これがけしからん、日本の進路を誤らせたきっかけを作った元凶、
と代々木中学の歴史の先生は獅子吼したのでした。
ところがこの教室にはその河本大作の直系男子の孫がいたんですね。 河本君は身の置き所がなく縮こまっていたと、島野君は楽しそうに解説してくれたのでした。
聞いていた小生もさすがに満州某重大事件は知っておりましたが、代々木中学でそんなことがあったの、それは当人にとってみればさぞかしですね、とか言った記憶があります。
この話は学院1年生の教室での話ですから16歳か17歳、 やがてすっかり忘れていたのですが。
それから60年余り、コロナの初期のころ、 NHK地上波を見ておりますと何か満州某重大事件のようなことを放映している。途中からでしたが、
河本大作の一族の女性が河本大作がやったことをきちんと知ってほしいと言った著作を世に問い、それに合わせて番組を作っているんですね 。
<「張作霖を殺した男」 の実像 桑田冨三子>
番組の中身は忘れましたが、学院1年生の教室がまざまざと蘇ってきました。ところがこの番組の途中から最後まで、その後この著作を読んでみても代々木中学の河本君らしき人は登場しません。島野君に問い合わせようにも、
島野君は2018年11月に他界しています。 あれは幻だったのか、
もやもやを引きずるのも嫌なので、思い切って出版社を通じて桑田冨三子さんにお手紙を書いてみました。
そうしますと桑田さんよりご返事をいただいて、代々木中学の河本くんは実在して島野君のこともよく知っている。
河本大作の長男の次男で、代々木中学の授業で河本大作悪人説が講義されていた。昔のことは思い出したくない。
さてこの満州某重大事件。 宮中では
昭和天皇が、一地方政権とはいえそのトップが殺害された、しかも関東軍が関与しているのではないかと心配される。一方、国会では野党の民政党の闘士・早稲田出身の中野正剛が、時の首相
田中義一( 政友会)をギリギリと攻め立てる。 田中首相は昭和天皇に事件の解明と責任者の処罰を約束するのですが、
内閣では事件を解明すれば陸軍の不祥事が世界に明らかになってしまう、
ここはうやむやに終わらそうという意見が強く、結局、田中首相は犯人は不明、責任者の行政処分にしましたと昭和天皇に報告に上がったところ、
昭和天皇はお前の言ってることは前と違うじゃないかと激怒、 もう顔は見たくない、
陛下に叱られて田中首相辞任。ほどなく心臓発作か何かで死去。昭和天皇、時に29歳、 実に気合が入ってましたね。
宮中で天皇陛下、国会で中野正剛、この共闘で、満州某重大事件がきちんと処理されていたとするならばわが国の昭和史の方向は相当変わっていったのではないかと惜しまれるのであります。軍人さんたちが何やっても当局が隠蔽してくれるか、
処分はあっても軽めとか。
その河本大作ですが、負けてはいません。
<日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、
張作霖爆死事件をめぐって、これに善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとする一派が出て、 中野正剛らは
それに狂奔するありさまであった >(『中野正剛 』猪俣敬太郎著 吉川弘文堂)
河本大作はその手記で中野正剛に対する敵意をむき出しにします。
河本大作vs中野正剛
さて、
吉永小百合さんのお宅は徒歩15分ほどの代々木八幡宮<図のF>が鎮守の神様。
お祭りとか七五三とか。平岩弓枝さんがこの代々木八幡宮の一人娘という話は有名ですよね。吉永小百合さんのお宅が代々木中学裏門から徒歩約30秒という話は前に書きましたが
この裏門から代々木八幡宮までの途中というか、代々木中学裏門沿いの一本道を歩いて1ブロック過ぎたところに
、今はベトナム大使館<図のC><写真3>があります。 実はここが、戦前、中野正剛の自宅だったのです。

<写真3>ベトナム大使館( 中野正剛旧邸)
記号の説明 A;吉永小百合旧宅、B;代々木中学裏門、 C;ベトナム大使館( 中野正剛旧宅)、D;ここも中野旧宅の敷地 現マンション、
余談ショーケンといしだあゆみはここで夫婦生活、ショーケンは1F出入口の玄関先でタイマで逮捕、E;三宅雪嶺旧宅、F; 代々木八幡宮、
G;小田急線 代々木八幡駅、H ;渋谷区立富谷小学校、 I;小田急線 至新宿 、J;山手通り至京王線初台駅。矢印方向は上り坂
ということは、河本くん、代々木中学の授業でたっぷり歴史の先生から河本大作悪人説でいたぶられたうえ、一歩中学の外に出れば、そこにはおじいちゃんの天敵である中野正剛旧邸。濃密な舞台装置が出来上がっていたわけですね。河本くんは全然知らなかったでしょうけども。代々木中学の歴史の先生も知らなかったんじゃないかな。
島野君が存命であれば、代々木中学の歴史の時間の満州某重大事件、その続きがあるんだよと、ドウダとばかり解説したはずなのですが。それからそもそも代々木中学の近現代史の先生はその教室に河本大作の孫息子がいたことを知ってた上で弾劾授業をしてたんですかねと改めて疑問をぶつけたと思うのですが。
さてその中野正剛、その妻の父親が明治期から大正戦前昭和にかけての大ジャーナリスト哲学者の三宅雪嶺で、中野正剛旧邸から約100mという近いところにに住んでいました。中野正剛妻は年老いてきた両親の世話をするためもあり、昭和7(1932)年1月に引っ越してきたのです。
三宅雪嶺宅は最近まで旧邸<図のE>として保存されていましたが、今はマンション。中野正剛邸宅は敷地500坪、岳父の援助もあったとか。その広さから多分近所で知らない人はいないお屋敷だったと思われます。ただ建物は何か合宿所を思わせるような造りだったそうです。
書生さんもいっぱいいましたし 。
ただ、ところ番地なのですが、わずか100mしか離れてないというのに、中野邸は当時の住居表示で代々木本町、
三宅邸は代々木初台町。初台と言ってもこちらは小田急線代々木八幡駅にも代々木八幡宮にも近く、地元では代々木八幡の初台と言っていました。
さてここまで準備したところで再び近衛文麿のお妾さん(山本ヌイ、
元は新橋芸者駒子、2人の間には女の子ができている)の話になります。ヌイ女史が下谷池之端から転居先として選んだのは。前掲工藤著より本人の手記を引用します。
戦後の手記とはいえ近衛文麿公爵をパパですからね。
<私たちは、パパと一緒になってから、三回移転しました。はじめ下谷池之端にいたのですが、私の母がなくなってから、荻外荘への往復に都合がいいように、
代々木八幡の近くの渋谷区初台へ、 三十坪の家をニ棟新築しました。当時は、 建築制限で三十坪以上は建てられなかったのです。
一棟の方はパパの客間に設計し、 広間と茶室がありました。
もうひと棟は私と斐(あや)子が住み、芝生の庭に斐子のためにブランコなどもつくりました>
<私の母がなくなった>のは 手記によると、昭和14(1939)年67歳とあります。近衛文麿
本宅の荻外荘引っ越しは昭和12(1937)年12月。ですのでこの約2年間は近衛文麿は永田町から池之端経由荻外荘だったのでしょうか。確かめようがないのでこれから先はから、代々木八幡の初台への引っ越しは、昭和14年として話を進めます。第1次近衛内閣退陣は昭和14年1月5日とありますから、
近衛文麿が代々木八幡の初台に妾宅を構えた時は少なくとも第1次近衛内閣の首相ではなかった。
ヌイ女史が 「代々木八幡近くの渋谷区初台」を選択したとするならば、新居を初めて訪問した近衛文麿は驚愕したのではないでしょうか。中野正剛邸のほんの近所じゃないの。2人は枢密院貴族院衆議院の差こそあれ、それぞれ有名国会議員か重臣。互いによく知っています。そもそも中野が民政党を飛び出し、東方会なる政党を組織していた時、この極小政党の党首がイタリア・ドイツ視察(1937年11月から1938<昭和13>年3月)に出かけムッソリーニとヒトラーと会見してきたというのも、時の首相・
近衛文麿が紹介状を書いたためでもあります。帰国後、中野正剛は近衛首相に直接会って、ムッソリーニとヒトラーとの会見の模様を報告しています。
中野正剛の本宅、近衛文麿の妾宅がほんのご近所同士。近衛文麿は男らしく仁義を切って、中野くん、このたび妾宅を近くに構えることになったのでよろしくとやったのでしょうか。それとも中野にバレたらどうしようと身をすくめるようにして妾宅の門をくぐっていたのでしょうか。
何しろ中野正剛は筆は冴える弁舌は火を吹く。 その上に稀代の毒舌家。陸軍主導の政治に対し政界がチームを組もうと近衛と共同戦線を張るのですが、
近衛は不決断、なよなよ、 腰砕け、 中野正剛がつけたあだ名が、近衛文子嬢。妾宅がバレたらナニ言われるか分かったもんじゃない?
しかも毒舌家は昭和7年1月に代々木初台町隣の代々木本町に引っ越してきてほどなく、昭和9(1934)年に正妻を病で亡くします。一人身を貫き政治と言う仕事一筋、わずかに趣味といえば、早朝の乗馬。
ヌイ女史の手記に何かその辺りのことが書いてないかと、国会図書館で連載56回分をマイクロフィルムで見てきたのですが、代々木八幡の初台の記述は極めて少ない。代々木八幡さまの祭礼に娘ととかね、あればよかったのですが。
ただ代々木にいた時、一番監視の目がきつかった。
それは東条英機内閣のこと。東条は政権につくや、憲兵政治を始め、しっかりと家は憲兵に見張られていた。近衛の車が家を出ると車で後をつける。あるとき知り合いの夫人に近衛の車に乗ってもらって都内をぐるぐる回り憲兵を翻弄してやったとか書いてありました。
第2次第3次近衛内閣昭和15(1940)年7月22日から昭和16年10月18日まで。以後東条内閣になり、昭和16年12月8日日米開戦。
中野正剛の政治姿勢を一口で言うと東条嫌いのヒトラー好き。ただ中野正剛も満州某重大事件を追及したのを境に拡張拡大路線に転換していきます。しかし日米開戦後は東条の統制経済、強権政治、独裁政治、戦争の長期化に批判的になっていきます。
東条も負けてはいません。反東条活動は、重臣工作は近衛文麿、 政界工作は中野正剛が担当しているとにらみ、
二人への監視の目を光らせます。重大指令任務を帯びた憲兵は手がけてみれば妾宅本宅の違いこそあれ、近衛文麿も中野正剛もご近所同士、
こんなコストパフォーマンスがいい監視体制も珍しいと思っていたかどうか。
さて、中野正剛の反東条活動、昭和17(1941)年11月10日の大隈講堂時局演説会、会場は熱気むんむん。 壇上に立った中野正剛は
「魂だけでは勝てません」「食うか食われるかの戦い、いや食われるかもしれません」と東条の痛いところをつく。
この会場に竹下登が早稲田第一高等学院の学生として入場しており、 感激して政治家を志す。
竹下はこの後、徴兵で軍隊に入っていますが、生き延びてふるさと島根で政治家になるわけです。
東条は中野をつけ狙い、憲兵と特高を駆使して現職の国会議員である中野を拘束します。国会の開会を間近に控え、ともかく中野を国会に出席させるなということだったみたいです。中野釈放、自宅に戻る。監視の憲兵が2人中野邸に泊まり込むなか、
昭和18(1943)年10月27日午前零時少し過ぎ、
中野は書斎で日本刀を使って自刃します。家族宛の遺書はありましたが動機についての遺書はなし。
中野自刃のニュースは日本中に衝撃を与えました.。その葬儀には東条の目も気にせず2万人ほどの国民が駆けつけたとのことです。あの谷崎潤一郎も戦後のことですが、「鹿もどき」
という エッセイで、「戦争中に一番立派な死に方をしたやうに思はれましたのは、中野正剛さんでございます。
失禮ながら政治家としてそんなに偉い方のやうには思つてはをりませんでしたが、あの死に方を見まして手前はすつかり見直しました。
あれこそまことに昔の武士に劣らぬ最期だと申せませう。」(原文旧漢字旧かな)
反東条を貫きあの大谷崎をうならせる見事な死に方をした中野正剛。そのほんの近所に反東条で共同歩調をとっているはずの近衛文麿が妾宅を構え、偸安の日々を送っている。中野本宅で自死の報に接した時、
妾宅の近衛文麿の心境はどんなものだったのでしょうね。
昭和19 (1944)年7月22日 サイパン陥落の責任を取らされて、東条退陣。
米軍の空襲はいよいよ激しさを増し、近衛文麿は空襲が怖いと言って小田原の奥( 入生田、
隣は箱根町)に5万坪の敷地に古民家という物件を探し、昭和19
(1944)年12月初台の妾宅を疎開させます。実際<図のH>の富谷小学校は空襲を受けてますから、そう間違った判断でもなかったと思われます。この小田原にもちょくちょく近衛文麿は滞在していたとのことです。
さてここから再び荻外荘に戻ります。 巣鴨出頭指定日前日の昭和20(
1945)年12月15日、荻外荘には多くの人があるいはこれが最後かと、集まってきます。その中で近衛文麿と一高時代の同期というか同窓と言うか後藤隆之助、
山本有三の三者会談が行われます。この山本有三ってあの『路傍の石』『
心に太陽を』の作家ですね。自宅も三鷹の玉川上水のほとりですので、荻外荘の一駅となり。
後藤隆之助は京都大学でも近衛文麿と一緒で、京大時代に親交を深めたと言います。 豪傑肌親分肌で近衛の政治活動をサポートします。
三社会談は次の展開となります。(『無念なり 近衛文麿 大野芳著』より
医師の診断で巣鴨出頭せずという方法もあるが、という問いかけに、近衛文麿は裁判を拒否するつもりだ。
山本「公爵は最後の場合のことを考えているのではないか」
近衛 (言下に、少し首を横に振って、実にハッキリと)「いいえ」
本人は自殺を否定したものの話の流れはどうしても自殺の方向。
裁判でこちらの立場を主張すべきだ、いやそれをすると統帥権問題となり天皇陛下に迷惑がかかる。事情を察した後藤は
後藤「 東條の様な、ぶざまなことのない様にして貰いたい」
これは東条がGHQがお迎えに来た時にしばし待てと書斎に入り、拳銃自殺を図るが未遂に終わった一件でしょう 。 一発で一気に決めろ。
東条の件について反応はなかった近衛ですが、 山本は「 できるだけ書き残しておいて貰いたい」。
近衛「既に書いてある」
後藤「 それは支那事変や日米交渉の手記のことか」
近衛「 そうだ」
後藤「それではない。 何故死んでいくのか、その理由をはっきり書き残して貰いたい」
近衛 (無言)
引用が長くなってますが、さあここから先の後藤の発言が本筋です。
後藤「 中野正剛はあれだけ日頃はハッキリ物をいつていたのに、最後は淡々たる心境などというだけで、ハッキリ言つていない。一つハッキリと書き残して貰いたい」
近衛 (無言)
座の雰囲気を変えるように、応接間で皆で話そうと近衛文麿が発言します。
後藤は中野が自死を遂げた中野本邸と近衛の妾宅がほんのご近所同士という認識があったのかどうか。 GHQ
の指令で巣鴨に出頭するか、それとも拒絶するかの瀬戸際の近衛文麿に中野の名前を出すことは、何かスプリングボードを用意したみたいな印象です。ぶれることなく反東条を貫き昔の武士に劣らぬ最期を遂げた中野のゴク近所でキミは何をしていたのかね。お妾さんの膝枕?
負い目、引け目の身上のその古傷に塩を塗られてたわしでゴシゴシ。近衛文麿の最後のジャンプの全てとは言いませんが、
ちょっと後押しというかダメ押しというのか、との推測も成り立つのではないかと思います。
重荷を背負わせたラクダに、藁1本追加するとラクダはグシャの例えみたいな。
近衛は無言でしたが、心の中で、セイゴーよ、予は決して近衛文子嬢ではない、 オトコ文麿、男子の散り際は心得ておる。
翌出頭指定日の12月16日の午前6時ごろ、その寝室に灯りがついているのに気づき正妻が寝室に入ってみると近衛文麿はコト切れていた。
代々木八幡 初台の妾宅がその後どうなったのか、
連載手記を読んでみましたが書いてありませんでした。ただ小田原の5万坪の古民家、正妻サイドから立ち退きを求められ、ヌイ女史、
何かをいただこうとは思っておりません、1年後に娘を連れて退去します。新橋芸者の心意気ですね。
代々木八幡駅前<図のG>に戦前から続いていた寿司店があります。この店では、中野正剛がガソリン不足のため馬車に乗って、店の前を往還するのを見ていて、代々語り継がれていました。馬糞には困った。
2023年に店じまいとなりましたが、元店主の方に、代々木八幡の初台に近衛文麿が妾宅を構えていたとお妾さんの手記にあるが、お父さんの世代で何かそれらしきことを見たり聞いたりしたことがあったでしょうかと質問しましたところ、
まったく初めて聞く話です、でした。
学院同期生の島野君、S君との60年にわたる時空の中に登場した満州某重大事件、河本大作、 中野正剛、 近衛文麿
、荻外荘、山本ヌイ女史、代々木八幡、渋谷区初台。
両君との交友がなければ全然繋がる話にならなかったわけで、小生の手元で終戦直後までの昭和史のある断面としてまとめてみましたのが、以上のお話でした。
<本文中に表示していない参考資料>
・「東京タイムズ」昭和32年2月19日から5月2日まで連載56回 山本ヌイ手記
・近衛文麿の住居変遷
https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-22.html
・ 中野正剛Wikipedia
・ 『無念なり近衛文麿 大野芳著』ただし引用した三者会談部分は矢部貞治著『近衛文麿』 よりとなっています。
・『 父 ・中野正剛 中野泰雄著』
・『中野正剛自決の謎 渡邊行男著』