【今思うこと】「ワセダでの学びから新聞づくりの現場へ」 43期 佐藤敬一
1992年(平成3)卒 43期 佐藤敬一 D組 法
ワセダでの学びから新聞づくりの現場へ
「長嶋茂雄さんが亡くなりました」。午前8時半前。泊まり明けの社会部員が発したその一声に編集局は騒然となりました。これから夕刊の編集作業が始まるというタイミングで飛び込んできた「ミスタープロ野球」の訃報に、その日の夕刊の編集長を務めていた私は対応に追われました。時代をつくったスーパースターが亡くなったニュースを最大級の扱いにすることは何の異論もありませんでしたが、1面の見出しはどうするか、どの写真を使うのか、決めなくてならないことは山積み。号外の手配は他の責任者に任せ、バタバタとしているうちになんとか夕刊を作りましたが、編集作業を終えると思わずほっとして思わずため息をつきました。――。
1992年に卒業(43期)したD組(ドイツ語・ロシア語)の佐藤敬一です。早大法学部を卒業後、1996年に毎日新聞社に入社し、記者生活を送ってきました。学院と毎日新聞の大先輩である堤哲さん(11期)からお声がけいただき、寄稿させて頂きました。冒頭で紹介したのは2025年6月3日の出来事で、こんな突然のニュースが飛び交う新聞作りの現場で30年ほど働いてきました。私がジャーナリズムの世界に入ったのは、早大学院で過ごした3年間で経験したことが大きく影響していると思います。
私は学院の3年間、ハンドボール部に入り、顧問の北島良男先生(D組の担任でもありました)にお世話になりました。最後の大会が終わった3年の夏休み、友人2人とザックにテントや寝袋を入れて北海道旅行に出かけました。大学受験をしなくていい学院だからこそできたもので、2週間にわたって北の大地で貧乏旅行を満喫しました。日本の広さを実感した私は、秋からアルバイトを始めてお金を貯め、大学入学前の春休みには同じ友人2人と今度は沖縄に。戻ってきたのは学院の卒業式の前日でした。当時の沖縄はまだ本土復帰(1972年)を果たして20年を迎えたころで、那覇も今のような都会ではなく、「異国」の香りを色濃く残していました。本土とは全く違う沖縄の文化や自然に魅了され、大学に進んでも沖縄通いを続けた私は、「新聞記者になっていつか沖縄で取材したい」と思うようになりました。
そんな思いを抱いて毎日新聞社に入社し、いろいろな取材を経験しましたが、運良く願いがかない、2014年から那覇支局長として沖縄に赴任しました。支局長といっても毎日新聞の沖縄の記者は私1人だけ。「特派員」のような存在でした。

休みの日に子供たちを遊びに行った沖縄の海
私が沖縄で取材を続けた4年間はちょうど、翁長雄志(おなが・たけし)知事が県政を担った時期と重なっています。「イデオロギーよりもアイデンティティ」を掲げ、保守から革新までを一つにまとめた翁長知事は、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設計画に反対し、移設を進めていた当時の安倍政権と激しく対立しました。「政府対沖縄」。その動きを追い続けるめまぐるしい毎日でした。

沖縄県の翁長雄志知事(当時)に取材する筆者
辺野古移設を巡る法廷闘争、オスプレイなど相次ぐ米軍機の墜落事故、元米兵の米軍属による女性殺害事件、小学校校庭への米軍機窓落下事故……。4年間の勤務中、さまざまなことが起こりました。その中で私が考えていたのは「沖縄を見ていると日本という国の姿が見える」ということです。全国の面積の0・6%にしか過ぎない沖縄に全国の米軍専用施設の7割を押しつけているのは過重な負担ではないか。知事選や衆院選で相次いで沖縄は「辺野古移設反対」の民意を示しているのに、それを無視し続けるのは民主主義として正しいのか。この不条理を許せば、いつか沖縄以外の場所でも同じことが起きるのではないか――。記事を通してそう訴えてきました。
もう一つ大切にしていたのは「物事を点で見るのではなく、線で見る」ことです。米軍関係者による事件や事故が起こると、政府は目の前の出来事に対処し、「火消し」を図ろうとします。しかし、凄惨な地上戦が展開された80年前の沖縄戦、戦後の27年間にわたる米軍統治下で繰り返された米兵らによる事件や事故など、沖縄の人たちは長い歴史の時間軸の中に位置づけて物事を見ています。このことを理解しないと、沖縄の人たちがなぜ新たな基地建設に反対し、米軍の事件や事故に声を上げるのかを本質的に理解することができません。「点」でしか物事をとらえず、その場しのぎの対応に終始する政府の姿勢に、沖縄の人たちは異議を申し立てていたのです。

米軍嘉手納基地での取材
残念ながら翁長知事は私が沖縄を離れて4カ月後に志半ばで急逝され、離任直前に知事室でお会いした時に握手したのが最後となりました。しかし、沖縄の問題はいまだ解決していません。「沖縄が日本に甘えているのか、日本が沖縄に甘えているのか」という翁長知事の訴えは、今も本土の私たちに重い問いを投げ掛けています。
現在は管理職として、現場の記者たちにいかに力を発揮してもらい、いいコンテンツを出してもらうかを日々考えています。誰もがSNSなどで簡単に情報を発信できる時代になり、新聞をはじめとする報道機関は「オールドメディア」とも言われています。それでもフェイクニュースや陰謀論がはびこり、米国などの先進国でも民主主義が危機的な状況にある中にあって、社会の深層で起きていることを正しく分析して伝えるジャーナリズムの役割はこれからも重要なものだと考えています。
沖縄で私は基地問題だけでなく、80年前の沖縄戦の体験者の取材を続けてきました。日米両軍の地上戦となった沖縄戦では県民の4人に1人が命を失い、約20万人が犠牲となりました。「命(ぬち)どぅ宝」。新聞記者の最も大切な使命は何かと問われれば、私は「二度と戦争を起こさないこと」だと答えます。50歳を過ぎてもこうした考えをためらいなく口にできるのは、学院、大学で自由な空気を吸い、たくさんの本を読み、友人たちと議論したことが背景にあるのだと思います。私を形作ってくれたワセダでの学び。本当にいい学び舎で過ごしたなぁ。今、振り返り、そう思っています。

沖縄では仕事に追われただけでなく、暮らしも楽しんだ。伝統行事「旗頭」に参加した筆

沖縄では多くの離島も仕事やプライベートで訪れた。写真は波照間島の空港近くにいたヤギ


