【思い出】「津川雅彦がいた時代からあれこれ思い出し」 15期 高谷尚志(たかやなおし)
1964(昭和39)年卒 15期 高谷尚志(たかやなおし) I組 工経
【思い出】津川雅彦がいた時代からあれこれ思い出し
「わが校(学院)の場合はね、津川雅彦中退というのが入ってないと。サイドの話が光ってると、本筋も生きてくるのよね」
ダイヤモンドオンラインに 「全国高校人国記」的なものを連載している旧知のフリー・ジャーナリストの猪熊建夫氏と、東京日比谷の日本記者クラブ9階食堂で昼食を共にしている時のことでした。イノクマと言っても、皆さん、それなあにでしょうから、サイドから攻めますと、東京都立大学附属高校(現・都立桜修館中等教育学校、中高一貫)在学中はあの久米宏と同級生。校内演劇大会で同じ演目に出場しましたが、(天性のトーキングマシーンと言われる)久米より俺の方がセリフが多かった 。
イノクマ氏とあるパーティーでバッタリ、今度ゆっくり昼飯でもとなってこの会食になったわけです。
猪熊氏は毎日新聞 「エコノミスト」誌に長いこと、全国伝統高校人国記のようなものを見開き2ページで連載しておりまして、私も時々見てましたが、その完成と共に、上下2冊の書籍にまとめたんですね。それを昼食の時に持参しプレゼントしてくれました。その場でパラパラとやりますと、北海道のある高校。T氏、農林水産元事務次官。北海道というところは水産・農業・林業・畜産地帯でありますから、地元の高校を卒業して東京大学法学部、農林水産省入省、お役人トップの事務次官。これはもう郷土の誇り、出身高校の誉れ。そこまではいいんですが、
猪熊さん、このTさんはですね、高校の同級生結婚なんですよ。サイドでちらっと光るものを出しておくと、イノクマさん、さすが、 取材力が違うねとなるんですよね。
エコノミスト誌の連載が終了した後、今度はダイヤモンドオンラインで、週刊誌の見開き2ページでは書ききれなかったこと、新しく発生したことなどを織り交ぜ電子版として連載(日本を動かす名門高校人脈)を継続してるわけです。電子版ですから文字数の制限も比較的ゆるい。北海道のこの高校を再度取り上げるに際し、それを付け加えたらどうですか。
猪熊さん、ガゼン乗り気でしたので、Tさんは亡くなってますが、夫人はご健在。電話して確認してみましょう。とりわけ夫人の高校時代のお名前、つまり旧姓が大事ですよね。帰宅後、早速夫人に電話して確認、旧姓をふくめ、猪熊さんにメールしてなんとかダイヤモンドオンラインには同級生結婚のくだりも入りました。
さて、自宅に戻り贈呈された上下巻をゆっくり目を通し、学院のところを読んでみますと、冒頭の津川雅彦が出ていない。
やはりサイドは光らせないと、と猪熊さんに北海道の同級生結婚、夫人の旧姓について、メールと電話でやり取りをしている時に、その旨伝えました。さすがに全国の高校をあれこれ調べている方ですね、津川雅彦は最初、京都の高校にいたんだよね、と間髪を入れず指摘。これは知らなかった。最初から学院にいるものとばかり思っていました。そこでだいたい次の話を電話でいたしました。
学院1年生の英語の時間、これは英語とは全く関係のない余談なのですが、K先生、ある年のある教室に英語の授業で行ってみると、眉目秀麗な、君たちとは全然顔立ちの違う生徒が一人いた、あれなんだ、と授業の後事務所に行って、その学生の身上書みたいなものなんでしょうかね、を調べてもらうと、加東大介、沢村貞子などを輩出する役者さんの一族の出身。どおりであの顔立ち。つまり津川雅彦(本名・加藤雅彦)だったんだな。その頃はもう津川雅彦として誰もが知る存在となっておりました。実兄が長門裕之。
私などいろいろ自信がない中でとりわけ自信がないのは容姿容貌。若き日の津川雅彦さんと比較されるなんていうのは、いわば傷口に塩を塗られてゴシゴシといった状態。ムッとした記憶があります。この時点でK先生は津川雅彦が学院を卒業したかどうかについては言及されてなかったと思います。私も早とちりで卒業したものとばかり思っておりました。
猪熊氏は早速、調査に入り、学院の前は京都の同志社高校に在学していたとメールで送ってきてくれました。同志社高校から学院へ、どういう経過で入学したのかなどは全く知りません。
さてそれからです。私は早稲田を卒業後、毎日新聞に入社し、新聞社というところはあれこれいろいろ調査するところで、津川雅彦さんのその後についての情報にも触れました。ここから先は印刷物とかネットで見たものの記憶ですから。夏休みとかお休みの時に、津川雅彦は請われるままに、映画出演します。そのタイトルが「狂った果実」(1956年、中平康監督)。石原裕次郎初主演、お相手は北原三枝。水着姿の裕次郎と北原三枝の激しいラブシーンのポスターが記憶に残ってます。津川雅彦は2人の運命をがっちり握る少年というか青年というか。映画と言っても、文部省特選清く正しく明るく爽やかかつためになるといったものではなく、世の中の普通の倫理感覚無視無軌道讃歌の太陽族映画。

<注> 生成AI で。本物は横書き一行

<注> 生成AIで。本当に3人、この順番に縦書きで並んでいました。
教育上いかがなものかと大問題となり、津川雅彦は退学となります。津川雅彦は早稲田を卒業して新聞記者になりたかったのにとか後年、述懐していたのを何かで読んでおります。
この「狂った果実」の原作者は石原慎太郎ですが、この石原慎太郎を発掘したのが、学院で教鞭を取られていた浅見淵先生なのです。先生は新人発掘の大御所で、石原慎太郎がどこかの媒体に発表していた『太陽の季節』を一読して激賞。文壇とその周辺もアサミがいうなら間違いないだろうと評判が徐々に 広がっていって、ついに 芥川賞候補作となります。
一方、石原慎太郎も新人発掘の大御所の浅見先生が褒めているというのを誰かから聞いたのでしょう。浅見先生のお宅を訪問したと言うんですね。しかし先生は外出しておられて、しばらく多分あがって待っていたのですが、帰宅がずれ込み、ついに浅見先生にお会いすることがなく引き揚げていった。そしてその直後、『太陽の季節』芥川賞受賞(1956年1月)大フィーバーの中に投げ込まれ、石原慎太郎の頭の中から、浅見先生訪問はすっかり消えてしまった。
もしもこの時浅見淵・石原慎太郎の面談が行われていたとしますと、これは賀茂真淵・本居宣長、松坂の一夜、現代版とも?! 少し角度を変えますと、浅見先生が新人を発掘、大ブレイクすると、ほどなく学院で退学者が一人出る。学院版バタフライエフェクトとでもいいますか、風が吹けばといいますか。その映画 「狂った果実」を私が実際に見たのは21世紀になって、 CATVの放映でした。録画を見てみますと、津川雅彦16歳。水も滴る新鮮清冽な若者。K先生が君たちとはまるで違う顔だったと言ったのもよく分かりました。
さて話は少し変わります。
私などが在籍した学院15期に有名な映画監督N氏の子息が在学しているという噂が伝わってきましたが、1学年あれだけの人数ですから、どの学生なのか特定はできませんでした。3年進級時にクラス替えがありまして、クラス替えなしの1、2年が一緒だった友人G君が所属するクラスに遊びに行きますと、タカヤ、あそこにいるのが、N監督の息子のM君だ。私も大学に進学しましたら、第2外国語のクラスで、M君と同じ授業になりましたが、こちらはM君と認識しても、M君は私のことは全然記憶にも残っていないはずです。
さて新聞社に勤務していた時です。ある有名な方のエッセイを読んでおりますと、そこに N監督らしき人が登場する。朝の散歩ですれ違うとN監督は坊やを連れている。少し立ち話をすると、N監督は坊やについて説明します。「女房の連れ子でね」。この1行を読んだ時、学院時代が蘇ってきました。同期生はN監督の息子のM君だったよね。とするとN監督の家には、M君の他に、女房の連れ子なる男の子がいるのか?はたまた、M君が連れ子?
早速、G君に確かめてみますと、M君はN監督と同じ顔してるじゃないの、あれは絶対息子よ。だいたい3年生の担任が英語のK先生で、3年生の初めに出席を取った時に、M君の名前を読み上げると、K先生はM君、キミはお父さんのN監督と同じ顔をしてるね。そこでクラスがどっと湧いた。もちろんご本人は湧かなかったでしょうけど。とG君は証言してくれたのでした。そこでさらに、M君と3年生のクラスが一緒、大学の学部も学科も一緒、M君の自宅にも訪問したことがあるというJ君にも確かめてみました。
自宅にも伺いましたが、連れ子みたいな人はいなかったし、あれは間違いなくN監督の息子でしょ、でした。さてそれからだいぶ経って、N監督が大変高齢で逝去され、ほどなくある映画ジャーナリストがN監督の評伝を出版しました。たまたま近所の図書館で見かけたもので開いてみると、 N監督と奥さんの間に女の子が生まれ、これでN監督のお宅には奥さんの連れ子のM君と新しく生まれた女の子の4人家族となった。(原文は全部実名)とあるではありませんか。散歩で出会ったというある方のエッセイはやはり本当だった。
15期はある同期生が自身の学院でのつながりをメーリングリストにしてそのリストの同期会というのが開催されています。私もその一人。メーリングリストですから、名前とURLがパソコン上に表示されるわけで、その中にM君があるではありませんか。あまり出席してなかったのですが、この評伝のこのくだりを読んだ後、出席することにしました。M君本人の確認を取らないと。
会場でM君に名刺を差し出して、過去には新聞社勤務がどうしたとか、少しお話を伺いたいことがあるので、M君の個人事務所に取材に上がりたいのですが、いかがでしょうか。
その場で了承を得て、その後メールのやり取りで日時を確定し個人事務所に伺いました。 さてそこでです。上記の評伝の書籍、そのページを開き、M君に読んでもらいました。
これは事実でよろしいでしょうか。さらに、これが初めて公式に記述され発表された文章ということでよろしいでしょうか。
M君はこの記述通りです。日経新聞「私の履歴書」には出てませんでしたっけ。日経新聞には出ておりませんでした。では、これが公表された最初の記述です。と、ここで一言弁明すると、私、別にひと様の家族関係を嗅ぎ回るのが、趣味なのではありません。
N監督は東南アジア戦線で傷つき倒れた兵士たち、その苦衷苦悶を描いた名作をいくつか残しておりまして、あるいはその動機は妻の元夫、M君の実父が東南アジア戦線で戦死、その鎮魂という意味合いがあるのではないかという仮説が成り立つかどうかを確かめるためにここまで取材に上がったわけです。それでM君の実のお父さんは? と質問しますと、この間まで年賀状のやりとりはしておりました。これ 、2016年頃の話ですから。21世紀までご存命だったのでしょう。
M君が在籍した学院3年生のクラスの模様を教えてくれたG君に、その顛末を報告しますと、あれだけ似てるということは、奥さんの男の好みが一貫してたということじゃないかな、とかG君ならではの仮説を述べておりました。やはり事実を確かめると誰かに喋りたくなるのが私の悪い癖。
学院3年生のクラスでM君と一緒だったW君(学院 1、2年は私と同級)とたまたま、一緒になった時に、キミはM君がN監督の奥さんの連れ子であったという話は知ってるか。
するとまたまた驚きの話が。知ってましたよ、M君とは中学校も一緒で、家に帰って今度、N監督の息子のM君と同級になったと報告したところ、あれは奥さんの連れ子ね。よく聞け、W君の家系には大手映画会社の敏腕プロデューサーがいまして、 映画界のことは裏の裏まで大抵把握している。それを聞いて以来、W君はこのことは絶対自分の口からは漏らさないと固く誓ったんだそうです。
中学、学院、大学の学部学科、W君はM君と一緒でしたが、周辺はもちろん本人ともその話はせず、私との会話でようやく重い口を開いたということでした。ですので、M君が所属した3年生のクラスで担任の英語のK先生が出席を読み上げて、M君、キミはやはりお父さんのN監督とそっくりだね、クラス中がわっと湧いた時に、M君1人は自分のことでもあるしそれに加わらなかったのはもちろんのことですが、もう1人、W君もそれに加わりませんでした、と修正しなければなりません。
K先生、津川雅彦の時は大変な慧眼を披露されたわけですが、M君の場合は我々普通の目と同じレベルであった。学院卒業以来、K先生とはすっかりご無沙汰ですが、この場をお借りして、M君の真実を報告したいと思います。
さて、再び猪熊さんの電子版高校人国記学院編に戻りますと、学院を電子版で取り上げるにあたり、週刊誌の連載では取り上げてなかった注目学生を紹介しておきましたという話になります。これを取り上げるかどうかは、まあジャーナリストの判断ですから。一応こんな活躍をした方々が。
<1> 梅津時比古氏 (17期)。
毎日新聞クラシック担当記者から、あの小澤征爾卒業の桐朋学園大学学長(2013年4月から2022年3月)。3期9年任期満了。意外なことにあの桐朋学園には音楽ホールがなかった。梅津学長は屋敷地内に音楽ホール建設を決意します。と言っても先立つものが。梅津学長はカレーチェーンで大成功したカレーハウスCoCo壱番屋の創業者が音楽文化振興に大変熱心であることに気がつきました。そこでその創業者に桐朋学園大学の学生のためにも大学に音楽ホールを設置したい、ご尽力ご助力ご支援いただけないかと手紙を書いた。そうしますとすぐに返事が来て、現地視察にいく。その結果、協力しましょうと快諾を得る。
ホールは音響を考え木造とする。幸いちょうど国立競技場建て替えは隈研吾さんの設計で木造となっていたのも追い風でした。さらに農水省林野庁も国産材活用を進めたい意向もあり、積極的に協力してくれました。トントンと、ついに桐朋学園に音楽ホールが完成した。学生さんたちも教場だけの練習、演奏よりも、ホールでの演奏体験を積んだ方が腕もぐっと上がってくることでしょう。 次から次へと予定が入る盛況。小澤征爾さんもまだ存命中だったので、きっと喜ばれたと思われます。
さてここまでが本筋。やはりサイドが。
梅津さんが学長のとき、桐朋学園の高校にはあのキムタク・シズカの長女で、フルート演奏を勉学していたココミさんが在籍していた。この話はちょいとにおわせてここまで。
<2>宮中歌会始選者・三枝昴之(15期)
学院在籍中は全く、三枝氏のことは知りませんでした。歌会始選者となった頃、どこからともなく、あの選者は学院の同期らしいぞの話が。三枝氏は山梨出身。私がたまたま学院3年で同級、大学は学部学科ともに同じになったE君、やはり山梨出身なもので、大学の学科同期の集まりの時に、E君、キミは三枝君と同じ山梨だし、と訊いてみると。もう2人とも山梨から学院へのきずな、当初よりの仲だったそうです。そこでだいたい三枝一代記を取材しまして。
さて世の中には歌詠む人というのは、万葉の昔からたくさんいるわけで、折に触れそういう方と出会うことがあります。それぞれの方の和歌・短歌活躍の模様を伺った場合、最後に、私、宮中歌会始選者三枝氏とは高校の同期でね、さらにそこでE君くんから聞いたエピソードの1つ2つを披露します。この世界に足を踏み入れた人で宮中歌会始(ミカドの勅撰古今集よりの光輝、ミヤビの水脈を受け継ぐとでもいいますか)を知らないというのはもぐりですから大抵の人はエッとなります。
ともかくひと様にエッとなっていただくのが、何よりの生きがいというのは、新聞記者稼業、習い性となっているもので、 三枝氏には感謝。
<3>すがはらやすのり・歌手 (15期、菅原保徳 2015年8月逝去)
学院でグリークラブ、 大学でコールフリューゲル。理工学部建築学科に進学し修士・博士と進むものの、歌い手の道、捨てがたく、そちらに転身する。
私はそういう同期生ないし歌手がいることは全然知らなかったのですが、学院 1、2年で同級、建築学科に進学したR君からある時、建築学科で一緒だった、学院グリーンクラブ出身、女性たちに大変人気のすがはらやすのりというのがいるんですよ。当時、私、毎日新聞「エコノミスト」編集部に勤務しており、エコノミスト誌の現代で活躍する人たちみたいなグラビア記事にすがはら君、登場してもらうことになりました。音質はハイバリトン。皆さん力強く前を向いて生きていきましょう、 あるいは パートナー と手に手を取ってみたいな曲目を届けていました。
それをきっかけにしばしば コンサートにも声をかけてもらい、ある時は日本武道館単独コンサート、ある時は野口雨情生誕120周年記念、あの山本富士子が野口雨情の一代記のナレーション、すがはらやすのりが雨情歌詞の名曲を挟む。私も2006年、渋谷区代々木上原の古賀政男記念館「けやきホール」に出かけ鑑賞してきました。

<注> 私もけやきホールでいただいておりますので。別な会場のパンフです。
さて 、2002年12月NHK 経営委員会委員に菅原明子という女性が就任しました。発表文を見た新聞記者さんの多くは、菅原明子WHO?の反応でしたが、 私、すがはら君の奥さん
とすぐ分かりました。当時NHKの会長は海老澤勝二氏(1997年7月31日から2005年1月25日、2025年10月19日 死去)。菅原明子さんはお茶の水女子大卒東京大学で研鑽を積んだマイナスイオンの研究や民間の健康問題 改善増進普及活動に取り組まれている才媛です。
さて、菅原夫妻がジョイント公演をすることになりました。第1部妻 菅原明子 マイナスイオンなど健康問題講演。第2部 夫すがはらやすのりの歌。私も声をかけてもらったのですが、まだ新聞社に勤務、仕事の都合で第2部だけ観ることにしました。終わって、ロビーは人また人。黒い頭だけが見える中で文字通り一頭地を抜いた頭というか顔が目に入ってきました。アッ、エビサワ氏だ。NHK会長がNHK経営委員の講演のみならずその夫の歌までのご鑑賞というわけですね。
さてそれからしばらくして、今度は東京大田区の池上本門寺大講堂で、すがはらやすのりコンサート。ゲストはバイオリニストの佐藤陽子さん(2022年7月逝去)でしたね。菅原夫妻は大田区住まいですので池上本門寺とはご縁が深い。ところが私も池上本門寺とはあるご縁が。というのは池上本門寺門徒総代の方の奥様とはある研究会でご一緒しているからです。池上本門寺大講堂コンサートご一緒にいかがですか、ぜひぜひ。なんせ門徒総代の奥様と連れ立ってですから、 私、池上本門寺から下へもおかぬおもてなしで迎えられまして。
門徒総代ですので、お名前を出してもいいでしょう、池上さん。池上さんご夫妻は慶応大学ダンス部のパートナー同士の結婚。卒業後、早慶(社交)ダンス部OB戦には出場しておられる。それは奇縁ですね。私の高校(学院)1,2年同級のI君は早大ダンス部キャプテン、K君は女子大との渉外担当でした。
まあ、タカヤさん、Kさんをご存知なんですね。OB戦でご一緒してます。紳士で素敵な方。
この話をK君にしますと、彼女、美人 だよね。私を間にして 美しいエールの交換。
これ、学院の メルマガですから、K君の活動を記録しておきますと、女子大との渉外係という何とも羨ましい役回り。K君、都内某女子大ダンス部と打ち合わせにでかけ、まず顧問の先生にご挨拶。顧問の先生は入ってくるなり「K、久しぶり」。なんとダンス部顧問の先生は学院1年生の時の国語を教えていただいたN先生だった。N先生はその後ほどなくその女子大の国文科の教授となられて、ダンス部の顧問もされていたということだそうです。なんとも奇遇です。
さて大講堂コンサート終了後、池上夫人、共々 、関係者打ち上げに参加させていただいて。この日はNHK経営委員の菅原明子さん、夫のアテンドをかいがいしく。私も初めて菅原明子さんとお話をさせていただきました。そこで先日の菅原夫妻ジョイント講演&コンサート終了後ロビーの人込み、頭一つ抜き出ていた海老澤さんを目撃しました。テレビや週刊誌では何度もお目にかかっていても、ライブで海老澤さんを見るのは初めて。これもみんな奥様のおかげです。
明子さん「大きいでしょう」
さて、 この記憶が蘇ったのは、猪熊さんの全国高校人国記上下巻学院編に目を通していた時のことです。そこに学院卒業生・NHK元会長海老澤勝二とあるじゃありませんか。全く知りませんでした。ですのでこの日、NHK経営委員の菅原明子さんとの会話は、明子さん、家庭ではご主人が学院出身、NHKに出社して共にNHKの現状や将来ビジョンを検討する経営層のトップ(つまり会長)が学院卒業、もう何か学院漬けの日々ですね。
とやらなければならなかったことに2025年7月になって初めて気がついたという次第でありました。このアプローチで行けばNHK上層部の内部事情がもう少し漏れてきたんじゃないかと何とも悔やまれる思いをしております。


