【今思うこと】 「人生は面白い」19期 遠藤茂

1968(昭43)卒 19期 遠藤茂 F組 応用物理 経済院

「人生は面白い」

1. 挑戦と迷い / 学生時代
 早大高等学院に入学し、先ず思ったことは、大学受験のない学校で、普段出来ないことをやってみたいということだった。入学当初、先輩の強い勧誘があってESSに入部。その活動の中で、AFS留学制度を知った。アメリカでホームステイしながら高校に一年間通わせてくれる制度だ。この留学試験には、運よく合格。もう一人の学院生と共に、同制度下で学院初の留学生となった。1966-67年、北ダコタ州の人口1万3千人程度のジェームスタウンという小さな町で高校生活を体験した。同町には大通りと言えるものが一つ、日本人は小生一人であった。留学の最後に、米国各地に留学していた世界中の留学生がバス旅行をしながらワシントンに集結。途中私は、ニューヨーク国連本部を見学する機会にも恵まれた。当時はまだ日本人が外国に出る機会は少なく、因みに1ドル360円(固定レート)の時代であった。この留学体験は、17才の少年の後の人生に強烈なインパクトを与えることになった。
 1967年夏、ジェームスタウンの高校を卒業し帰国。そして学院に復学。1年下のクラスに編入され、翌年春卒業し、大学へ。もともとエンジニアを志望していたので、理工学部応用物理を専攻した。ところがここから挫折が始まった。受験を経てきた学生たちの数学のレベルが高く、全くついていけないのだ。ジャズが好きだったので、クラブはモダンジャズ研究会に入部。ところが皆、セミプロ級の実力派。1年ももたずに退部。当時は、大学紛争が盛んで各地で学園封鎖が広がっていた。自分も心情的には路上闘争している学生たちに惹かれたものの、ヘルメットを被って闘争に参加する勇気はなく、悶々とする日々が続いた。
 そうこうしているうちに、大学4年の春になり、司法試験を目前に控えた先輩が拙宅を訪れる機会があった。偶々外交官試験に話しが及んだ時、自分の中で高校時代の留学経験が走馬灯の如く駆け巡り、即座に受験を決意した。翌日、本屋で“外交官試験必携“を購入。合格体験記を読み、試験科目等の情報を得た。その翌日、憲法、国際法、行政法、経済原論、財政学、外交史等の基本書を購入し、ゼロからの勉強が始まった。無謀といえばあまりにも無謀であった。1年後、一次試験は合格したが、最終不合格。この時点であと1年頑張れば最終合格までいけるかもしれないと思った。そして2年目に合格。この間、理工学部は何とか卒業、そして大学院経済学研究科修士課程に進み、無事修了した。

2. 苦闘しかし面白かった時代

 1974年外務省入省。上司より、前年の石油危機によって中東外交の重要性が一層高まったとしてアラビア語研修を勧められた。そして翌年から3年間、レバノン、カイロ大学、オックスフォード大学等で研修。
 以降、2012年秋に退官するまで10か国近い国で勤務。この間、国連代表部勤務、国際エネルギー機関(IEA)出向のほか、ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使、チュニジア及びサウジアラビアで特命全権大使を務めさせて頂いた。苦闘の連続ではあったけれども、今振り返ると面白い経験の連続でもあった。
 第一は、それぞれの国で、ユニークな“生き延び方”があることを実感したことだ。アメリカにはアメリカの、スイスにはスイスの、チュニジアにはチュニジアの、サウジアラビアにはサウジアラビアの生き延び方があり、それらを学べたことは非常に有益であった。
 第二に、哲学だ。人間関係において、勿論、語学は出来た方がいいに決まっている。また、ユーモアの有用性を挙げる人も多い。しかし、哲学を持っていることが最も重要であると思うに至った。

 第三は、2011年、サウジアラビア国王の要請で中東最大級の民族の祭典“ジャナドリヤ祭”に日本が参加し、日本館を出展したことだ。2000平方メートルのホールに屋外ステージを使って日本の過去・現在・未来を表現した。日本人社会が一致団結して短期間で仕上げたプロジェクトであり、日本を包括的な形で直接サウジ国民にアピールする最初の機会となった。特に青年男女の間で大きな反響を呼んだ。実は同祭典の直前、東日本大震災があり、開催について関係者の間で随分と悩んだ経緯がある。然しながら祭典中、多くのサウジ人から日本は必ず復興するとの激励も頂いた。また、義援金のほかサウジ政府からはLPガスの支援も受けた。震災1年後には、王子の一人に働きかけて、被災地より数名をサウジアラビアに招待してもらった。彼らは滞在中、復興を誓ってナツメヤシの記念植樹も行った。

 第四に、北アフリカのチュニジア。同国は資源国ではなく、人口も1200万人で市場規模も小さい。中東であって中東でない、アフリカであってアフリカでない、欧州であって欧州でないといわれる。然し、見方を変えれば中東であり、アフリカであり、欧州でもある。つまりこの3地域へのゲートウェイと位置づけられる。この視点に立つと新たな景色が見えてくる。可能性が広がる。しかも親日国である。チュニジアを見る視点が広がった。
 第五に、退官後の2017年、2025年大阪・関西国際博覧会誘致特使を拝命して1年間、中東・北アフリカ諸国を中心に誘致活動を行ったこと。嬉しいことに翌年、日本が選挙で選ばれた。この活動を通じて、日本の技術・文化等を売り込むことは重要であるが、それだけでは不十分で、相手国の文化・伝統への深い理解を示すこと、そして万博を“共創”するとの姿勢を示すことの重要性を改めて実感した。

3. 今思うこと
 ひとつは、誰かが言っていたことだが、“ネガティブ・ケイパビリティ(答えのない事態に対して耐える能力)”。個人にとっても組織にとっても重要になってきていると思う。
 コロナ禍やロシアのウクライナ侵略という予見し難い事象が続いている。今後とも、“ブラックスワン”的事象が続き、歴史がつくられていくかもしれない。この様な先行き不透明の時代にあっては、如何なる組織、企業、個人にとっても、その影響を免れない。これまで以上に“打たれ強さ“が求められていくと思う。思うに任せぬ状況に陥った時、それに耐え、寧ろ楽しむくらいの器量だ。とりわけ日本の企業にはしぶとく生き抜いてグローバルに活躍の場を更に広げていってもらいたいと念願している。
 二つ目は、“失敗は敗北ではない”。
 これは特に若い人に云いたいことだ。日本の社会には完璧主義、失敗を許さない空気が漂っているように感じている。窮屈で息苦しさを感じている人も多いと聞く。中東諸国で感じるのは、特に若い人たちの成長への熱い息吹やチャレンジ精神である。
人間は、失敗したときにこそ多くを学ぶ。失敗は敗北ではない。日本社会にもう少し、失敗を受容する寛容性が欲しいと思うのは小生だけであろうか。
 三つ目は、“必要とされることを必要とする”。
 定年退官から10年が経った。現在もOBとして時折り手伝うほか企業の社外役員を務めさせてもらっている。人間、必要とされることを必要とするとはよく言ったものだ。未だやることがあるというのは有難い。感謝に堪えない。

 最後に 、“人生は面白い“。
 自分にとって順風満帆な時はなかったと思っている。例えばイラン・イラク戦争下のバグダッド。空襲警報が鳴り、ミサイルが飛び交っていた。在留邦人の安全確保に奔走する一方、家に防爆カーテンを張って家族と共に息をひそめていた。また上司に怒られ続けた時もあった。その上司は「遠藤君は不思議な人だ。怒られても怒られても這い上がってくる。それが妙に説得力がある」と。貶されたのか褒められたのか未だに定かでない。失敗してもうダメかと思った時も何度もあった。然し後になってみると、何とか苦境を脱していた。この様なことは枚挙にいとまがない。そのすべてが財産だ。