【思い出】「歿後50年難波田史男との出会いと縁」 11期 今沢章信

                         1960(昭和35) 11期  今沢章信 E組 商 

歿後50年難波田史男との出会いと縁

難波田史男1960年前半(父龍起の画室で)

 
2024年3月7日 難波田君の歿後50年。我は82歳だが、難波田君は永遠に32歳である。

1959年4月 早大高等学院3年E組で彼と一緒になった。史男君が、戦後抽象絵画の雄である難波田龍起の子息である事は知っていた。当時の史男君は寡黙で、昼休みも2階の教室に残って窓から石神井公園の森を飽かず眺めていた。声をかけるのが憚られるような雰囲気であった。
同年8月 史男は外房の海岸で1週間ボランティアで一緒に売店を手伝った少女の面影が忘れられず、その思いを日記に綴っている。彼の生涯で唯一の恋であろう。

同年11月 修学旅行中の九州・阿蘇でクラスメイトのO君が自死した事に衝撃を受ける。その後に彼の年譜には必ずこの一項が出て来る。実はO君は私の親友で当日彼の遺品に私が貸したトルストイの「戦争と平和」が見つかった為に彼の遺骸の傍で生前の彼について2時間に亘って警察から事情聴取を受けた。遺書が無かったので私から何らかの情報が欲しかったらしいが、私にもまったく覚えが無かった。
その後20数年を経過して、巷の噂でO君の自宅に実は遺書が残されていたらしいと聞いた。その中には失恋が自死に繋がった原因であったと。私の記憶の中からピカリと光るものがあった。修学旅行の少し前に学校の帰り彼と歩きながらの雑談でO君から「今沢君は付き合っている女性はいる?」と聞かれたので「幼馴染の女性と文通をしているよ」と答えると「羨ましいね」と返ってきた。恐らくその当時O君は成就しない恋に悩んでいたのであろうと気が付いた次第である。

1959年1月 18歳 学院3年E組の卒業記念文集の編集委員であった私の元に史男君が原稿用紙36枚の創作を持ち込んだ。題は「俺たち」、年末に郵便局の集配
のアルバイトをした時の体験を綴った作品であった。この作品は後年訪れた群馬県桐生市の大川美術館にコピーを寄贈した。大川美術館は主婦の店・ダイエーの会長つだった大川栄二氏がご自分の膨大な絵画のコレクションを公開する為に故郷の桐生に開館したユニークな館で、氏が愛好する難波田龍起・史男親子の作品が特別コーナーとなっていた。「名画はコレクターが愛玩するものではなくて、所有者は一時期神様から預かっているものである」との大川氏の趣旨に大いに共鳴して数度通った。

1960年4月 19歳 早大進学を諦めて、母の勧めで文化学院美術科に入学、村井正誠の指導を受けて画業をスタート。絵の傍らロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」を読んでベートーヴェンに心酔していた。同年4月私は大学に進学したが、国会では日米新安保条約が強行採決され、大学から国会への連日デモに参加した。6月強行採決までの未曾有の国会デモで大学は3か月閉鎖された。

1965年4月 24歳 自己の絵画論を確立する必要を感じて早大文学部美術専修科に入学。高等学院時代にフランス語を教わった窪田般弥教授に再会。久し振りの学生生活謳歌し、大学祭の為に「早大行進曲」=添付の作品=を制作した。1967年26歳 新橋の第七画廊で初の個展を開催。大作「モグラの道」や「イワ
ンの馬鹿」をはじめ7年間に描いた多数の水彩・素描を展示した。この頃から水彩は透明水彩を使用するようになった。7月にEU発足。10月にはワシントン反戦大集会が行われた。

1969年 28歳 この年数回に亘って個展を開催。大作「サンメリーの音楽師」をはじめ、多数の水彩・素描を展示。新聞各紙に展評が載り、好評を得た。

1970年 29歳 10月卒業論文「現代美術における小説の役割―現代フランス小説」を提出、早大文学部美術専修科を卒業。後刻判明したのだが、彼の学生生活で最も親しかったのが画家の藪野健氏であったと。藪野氏は二紀会のメンバーで、早大教授も務め、芸術院会員となった著名な洋画家で、2011年には会津八一記念博物館館長となり、難波田龍起・史男親子の作品を同館に収納した。その藪野氏と現在入魂に私がお付き合いしているのも史男君との奇縁であろう。2001年10月19日に東京のふるさと切手として発行された早稲田大学大隈講堂の80円切手の原画は藪野氏の作品である(多くの方がカラー写真と思っているようだが油絵である)。蛇足ながら藪野氏は早稲田学報に毎号「記憶の中の早稲田」と題するスケッチ入りのエッセイを投稿されている。

1971年 32歳 美術雑誌のコラムに「海を見つめていると、海で死んだ人達を思い、自分も海で死ぬことへの憧憬を覚ええる」と綴った。この一文は図らずも3年後つの史男君自身の死につながる。

1974年1月29日未明 兄と九州旅行の帰途、瀬戸内海で神戸行のフェリーのデッキから転落、消息を絶つ。3月7日香川県の箱崎沖で漁船により遺体が収容され死亡が確認された。享年32歳。

史男君の死は単なる事故ではなく、前文の海への憧憬と彼が好んだマリンブルーの色調、そして高校3年の九州修学旅行のO君の自死がどこかで彼を海に誘ったものと信じている。永遠の32歳、史男君の50回忌に献杯!

 

「早大行進曲」=1965年

ミロ風?  無題=1966年

「難波田史男の世界」~イメージの冒険~世田谷美術館2014年12月~2015年2月開催