【思い出】「フジテレビ創成期のドラマづくり嶋田親一さんは学院一期生」 11期 堤 哲

1960(昭和35年) 11期  堤 哲 F組 経済

元毎日新聞社会部記者

フジテレビ創成期のドラマづくり嶋田親一さんは学院一期生

 

 フジテレビが開局した時(1959年3月)からドラマの演出に携わったプロデューサー・演出家、嶋田親一さん(2022年7月9日逝去90歳)が新制高等学院の一期生であることを、濵田研吾著『俳優たちのテレビドラマ創世記』(国書刊行会2024年6月刊、定価2,860円)で知った。3年C組。同窓会名簿を見ると、D組に野末陳平、F組に中村八大、1年下の2期生に青島幸男が載っている。                       
 この本は、嶋田さんの証言と資料でテレビ創成期(1950~60年代)のドラマを記録した「放送史を知るうえで必須の文献」とうたっている。筆者の濵田さんが、2020年9月から翌21年12月まで13回にわたって嶋田さんから聞き取りをした。22年1月に予定した14回目の聞き取りはコロナ禍で中止、その後嶋田さんが体調を崩し、この年の7月に亡くなった。

 嶋田さんは、学院を卒業して50(昭和25)年文学部芸術科(演劇専攻)へ進学。その年の6月に父親が49歳で急逝、大学を中退して新国劇へ入団した。芸名は檜眞一郎。53年新国劇を退団。翌54年ニッポン放送に入社。58年㈱富士テレビジョン(現フジテレビ)に出向、59年3月の開局で、編成局芸能部のディレクターとなった。82年に51歳でフジテレビを退職するまで、ドラマづくりに関わった。代表作に、「にあんちゃん」「三太物語」「6羽のかもめ」がある。その間、㈱新国劇社長や、テレビドラマ制作の新制作㈱社長を務めた。

   新宿のスタジオアルタ開設にもかかわっている。タモリの「笑っていいとも!」で一躍有名になった。退職後は新日本制作㈱社長の傍ら放送批評懇談会の専務理事(2001年退任)。フジテレビのディレクター仲間に岡田太郎さんがいた。そう、女優吉永小百合の夫である。岡田さんは嶋田さんよりひとつ上の1930年生まれ。文化放送から開局したフジテレビに入社した。開局翌年の60年に丹羽文雄原作、主演池内淳子の「日日の背信」が大ヒット、「よろめきドラマ」ブームを起こした。66年フジテレビ労組が結成された時、委員長が岡田太郎、副委員長が嶋田さんだった。岡田太郎さんは2024年9月3日逝去94歳だった。

   筆者の濵田さんとは、『鉄道公安官と呼ばれた男たち』(交通新聞社新書2011年刊)で取材に同行したことがあり、「学院時代の証言を聞いていない?」と尋ねると、以下の返信があった。2024

嶋田氏証言
——戦後、新制の早稲田大学高等学院ができた。1年生、2年生、3年生と全国から募集したんです。僕は3年生で編入しました。「どうせ秋田から入れるわけねえよ」と言われて(注:旧制大館中学校=現秋田県立大舘鳳鳴高校)。でも、ものは試しで受けたんです。もともと早稲田で芝居(学生演劇)をやりたかったし。そしたらどういうわけか、うまい具合にすべりこんじゃった。高等学院にいたとき、早慶戦に行っているんです。応援に狩り出されて。
——僕はもともと芝居をやるつもりだったから、学院から早稲田に進みました。うちのオヤジはまず、早稲田に行くことが気に入らなくてね。東大だったんで。
「なんで東大に行かないんだ」と言うから「なんで東大に行かないといけないんですか」と言い返した。東大に行けるほど頭はよくないし。そしたら、「月謝が安いんだよ、東大は」と。これはちょっと胸にこたえた(笑)。
それで、どうしても早稲田に。「なんで早稲田を選んだんだ」と言うから、早稲田は芝居(のメッカ)だから。河竹黙阿弥、演劇博物館、とにかく早稲田に行きたい。高等学院から大学への試験はある。オヤジは、「英文科や仏文科ではなく、演劇か!」と。強引に演劇のほうへ行かせてもらった。
——高等学院卒で、(父親の死で)早稲田大学をやめて、19歳で、この道に入りました。新国劇に石山健二郎という役者がいて、「君は早稲田まで行って、新国劇でやるってのは、どういう了簡かね」と。人が足りないから、文芸部も舞台にひっぱり出されるんです。メーキャップして、駕籠かきとかね。石山さんが花道で「早稲田までせっかく行ったのに、駕籠かきやるなよ」とぼそぼそ言うわけ(笑)。僕は「いいんです」と言った。
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  フジテレビといえば、私と学院同期11期生に、副社長までなった阿久澤雄次(2006年逝去64歳)、アナウンサーの浪久圭司がいた。浪久とは政経・経済のゼミで一緒だった。
                    
参考までに。学院3年の時の作文