【学部生の活躍】「山縣秀選手が北海道日本ハムファイターズからドラフト5位指名! 森徹選手以来、学院から2人目のプロ野球選手が誕生」 72期 近藤翔太 (早稲田スポーツ新聞会)

2021(令和3)卒 72期 B組 近藤翔太 商学部3年

【学院生の活躍】山縣秀選手が北海道日本ハムファイターズからドラフト5位指名! 森徹選手以来、学院から2人目のプロ野球選手が誕生

 

    

 

2024年10月24日、プロ野球ドラフト会議で山縣秀選手(学院71期)が北海道日本ハムファイターズから5位指名を受けました。学院からのプロ野球選手は、1957年オフに中日に入団した森徹さん(5期)以来。1965年にドラフト制度が導入されてからは初めてのドラフト指名を受けた学院生となりました。山縣選手のドラフト指名を祝して、早稲田大学公認サークル早稲田スポーツ新聞会で野球部取材担当を務め、約3年間、番記者として山縣選手の取材をしてきた72期の近藤翔太が山縣選手の経歴や活躍を振り返ります。

初めて山縣選手のプレーを見たのは私が大学1年秋の2022年東京六大学秋季リーグ戦(リーグ戦)の開幕戦である法大1回戦でした。この日は山縣選手がリーグ戦初スタメンで3打数2安打とブレークのきっかけを見せた試合でした。以来、学院の先輩が東京六大学の舞台で活躍する姿に惹かれ、神宮球場に足を運び続けました。私が番記者になったのは山縣選手が大学2年冬を迎えた時です。インタビューや記事の執筆を担当してきましたが、当時の印象は、まだどこか初々しいなという感じでした。ですが、球場では怖いもの知らずで、貪欲にプレーする姿が印象的でした。酸いも甘いも経験し、プロ野球選手の夢をつかみ取った山縣選手。3年間と短い時間でしたが、番記者として山縣選手の野球人生を紹介します。

 山縣選手の魅力は何と言っても鉄壁の守備力にあります。早稲田大学野球部OBでもあり、阪神タイガースなどで活躍された鳥谷敬さんを目標に努力を重ねてきた山縣選手。小学生の頃から遊撃手としてプレーすると、中学時代に稲城シニアを引退した夏から学生コーチによる付きっきりの指導で守備の基礎を徹底的にたたき込まれ、守備に磨きがかかったと言います。学院時代は入学して初めての練習試合でファインプレーを見せたことなど守備を中心に評価され1年夏からベンチ入りを果たすと、3年時には副将を務めチームをまとめ上げました。学院での集大成を見せるべく臨んだラストイヤーでしたが、コロナウイルスの影響もあり夏の甲子園が中止になるなど思う存分野球に打ち込めたとは言えませんでした。それでも、守備の名手として、さらには副将として学院硬式野球部の伝統を受け継いできました。しかし、学院卒業後は野球を続けるつもりではなかったと言います。そんな山縣選手を大学の野球部に誘ったのが同期で学院時代に硬式野球部主将を務めた薗部将大選手でした。「やらないで後悔するよりはやって後悔した方がいい」。そう覚悟を決め、早大野球部の門を叩きました。

 

 「4年秋に守備固めでベンチ入りできれば」。鳴り物入りで入学する選手たちが凌ぎを削る早大野球部。入学当時の山縣選手からすれば、これが精一杯の青写真でした。しかし、2年春にリーグ戦デビューを果たすと、2年秋には遊撃手のスタメンに定着します。やはり持ち前の守備が評価され、小宮山悟監督からは「東京六大学で一番うまいショートになる可能性がある」と言わしめたほどでした。そして4年春にはリーグ4位の打率3割6分6厘を記録。自身初のベストナインを獲得すると、チームとしても2020年秋以来、7季ぶりにリーグ戦優勝を果たしました。さらに、夏には侍ジャパン大学代表にも選出されます。プラハ、ハーレムで行われた11試合にすべてに出場し、両世界大会での優勝に貢献しました。

 

 無名の新鋭から世界一の遊撃手まで成り上がった山縣選手。「小さい頃からプロ野球選手になりたかった」と憧れの舞台で活躍することを夢を見て努力を続けてきました。そして迎えた運命のドラフト会議。指名開始から約1時間半が経過した時に、ついにその瞬間が訪れました。「第5巡選択希望選手 北海道日本ハム 山縣秀」。日本ハムが山縣選手をドラフト5位で指名し、交渉権を獲得。幼少期からの夢がついに叶い、学院から2人目のプロ野球選手が誕生しました。「何回でもゴールデングラブ賞を獲りたい」。指名後の会見で、そう目標を掲げた山縣選手。身長176cmと大柄ではないが、早稲田が誇る守備職人は北の大地でも大観衆を背に、これからも守備で沸かせてくれるに違いありません。

左端が筆者