【思い出】「森徹先輩のこと」16期 増田久雄

1965(昭40)年卒 16期 増田久雄 E組 経済

森徹先輩のこと

MLB大谷翔平の活躍が連日マスコミを賑わせている野球界だが、今年2025年に母校・早大高等学院出身のプロ野球選手が誕生した。ドラフト5位指名を受けて日本ハムに入団した山縣秀(やまがたしゅう)内野手だ。球際処理の巧みさと正確な送球で“守備職人”と称される内野手で、4月18日のデビュー戦初打席を初安打で飾ると、シーズン84試合に出場し、打率.232本塁打3本という成績で一年目を終えた。クライマックスシリーズでも第3戦で本塁打を放つなど、攻守にわたって活躍した。

山縣秀を最初の学院卒プロ野球選手と思うOBが大勢いるが、実は、70年近い昔に学院出身の第一号プロ野球選手がいたことをご存知だろうか? 

1958年に中日ドラゴンズ入団の森徹(もりとおる)外野手だ。

かつて大学野球が人気の中心だった時代が長くあった。その象徴とも言える早慶戦は横山エンタツ・花菱アチャコのコンビで同名の漫才になり、二人のかけ合いはラジオを通じて日本全国津々浦々に放送され、一大ブームとなった。

そんな六大学野球隆盛の時代に、ワセダの四番打者として活躍したのが学院から早大に進学した森徹だ。彼の名前が六大学野球史で余り知られていないのは、立大野球部の全盛時代を築いた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の立大三羽ガラスが同期にいたことがある。

特に長嶋の影響は大きかった。プロ野球に入団後も、1年目に23本塁打73打点といずれもリーグ2位の好成績を残しながら、両部門とも長嶋の後塵を配し、新人王を持って行かれた。しかし、翌2年目には31本塁打、87打点で長嶋を退け2冠王に輝き、プロ野球界を代表するクリーンアップ打者となった。

学院時代の森徹は野球だけなく、柔道部員としても中心的存在だった。その背景を紐解いてみると、プロレスラー力道山の存在が浮かび上がってくることも興味深い。

森徹は、満州で手広く料亭、旅館を経営する家で生まれた。太平洋戦争前に大相撲の慰問巡業で、双葉山率いる一行が宿泊したのが森家の旅館だった。関取たちの付き人として同行していたのが、序の口か序二段、所謂“ふんどし担ぎ”の力道山で、下っ端の相撲取りには厳しい満州巡業だった。そんな少年力士に人一倍親切に世話をしてくれたのが、料亭の女将の徹の母親だった。

やがて終戦を迎えると、大相撲はいち早く娯楽を求める国民たちに受け入れられ、力道山も幕内を張る力士にまで成長していた。ある日、力道山が銀座を歩いていると、路上に見覚えがある頬かむりの靴磨き女性がいた。よく見ると、彼女は戦前に満州でお世話してくれた、敗戦で着の身着のままで大陸から引き上げてきた旅館の女将さんーー徹の母親だった。

義侠心が厚い力道山は昔の恩返しをするべく、森母子の支援を決める。徹はこうして力道山の援助を受けて高等学院―早大と進学できるようになった。力道山は徹を歳が離れた兄弟のように可愛がり、濃人監督との不仲で中日から大洋ホエールズに移籍する際にも力道山が一肌脱いだという。

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偶然にもその森先輩とお会いしたのは、1997年初秋、赤坂のホテルだった。私が50歳だったのだから、森先輩は61歳だったはずだ。

平成天皇と学習院初等科からの学友でその年6月に他界した、『孤独の人』の作者藤島泰輔氏を偲ぶ会の会場だった。

「増田くん、あなたの学院の先輩を紹介するわ」

藤島氏の夫人だったメリーさん(ジャニーズ事務所創始者)が、歓談していた相手の恰幅のいい年配の男性を紹介してくれた。それが、森先輩だった。戦後、新制高校の学院卒業生として、一期の中村八大、二期の青島幸男は著名だったが、文武両道を地でいく五期の森徹は、彼ら以上に私の憧れの先輩だった。

その場では初対面の挨拶程度の立ち話だったが、会のお開き後に、ホテルラウンジで珈琲を飲む機会をいただいた。30分程度のつもりが1時間の歓談になり、ひと回り近く年齢が下の私に対しても礼儀正しく、豪放磊落でありながらお人好しの笑顔を浮かべる森先輩に恐縮したことを覚えている。

現役引退後、グローバル・リーグ(国際リーグ)の日本チーム『東京ドラゴンズ』の監督を引き受けながら、資金不足でリーグが頓挫した時の無念を語る森さんは日本国内だけなく世界の地球人が参加する野球を夢見ていたような気がした。

西伊豆のゴルフ場の責任者をしていて、「今度、遊びにきてよ」と言っていただきながら、私の映画プロデユーサー人生が忙しかった時期でもあり、結局2014 年他界するまでお会いすることもなく、一度限りの出会いに終わった。

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プロ野球OB会長だった森さんが逝去した2014年夏、私は日本人初の大リーガー“マッシー”こと村上雅則さんとMLBオールスター戦を観戦すべくニューヨークにいた。出場はしなかったが、ダルビッシュ有と岩隈久志が選出されていて、ヤンキースにイチロー、黒田博樹が在籍していたシーズンでその訪米は、大リーグを堪能する一週間になった。米大リーグを代表するメッツ球場、ヤンキース球場で、試合を観戦しながら、私はなぜか森徹先輩のことを思いだした。

――彼が北・中南米で創設された『グローバル・リーグ』の新球団東京ドラゴンズに選手兼監督に就任したのはこういう環境の中で采配を振るうことを夢見ていたのではないか。

そう思った時に、いつかこのメジャーリーグのことを描いてみたい、と思うようになった。それから10年を経た今年、執筆した『マッシー 憧れのマウンド』を上梓した。この書の中には、日本人初の大リーガー誕生秘話と共に、私が放浪した六十年代のアメリカでの青春も描かれている。是非、ご一読ください。

 

中列左が筆者 (1962年 放課後のひと時)

 

※事務局より

増田久雄氏は『あしたのジョー』『矢沢永吉RUN&RUN』『チ・ン・ピ・ラ』『ロックよ、静かに流れよ』『ラヂオの時間』等、五十本超の劇場用映画を製作。『太平洋の果実/石原裕次郎の下で』『団塊、再起動。』『デイドリーム・ビリーバー』『栄光へのノーサイド』など著作も多数。

また、本メールマガジン13号 (MM2024春)に【恩師】「浅見淵先生のこと」が掲載されています。  https://wasedash.jp/17700/