【今思うこと】「私の『心のふ・る・さ・と』」 22期 教職員理事 栗山雅史
1971年(S46)卒(22期教職員理事) 22期 栗山雅史 C組 教育(体育学専修)
私の『心のふ・る・さ・と』
学院22期の栗山です。吉原理事長からの要請で筆を執る次第です。どんな文章になるか想像できませんが、皆さんの時代を思い出しながら読んでいただければ幸いです。
まず、私の時系列的なものから見てみたいと思います。学院に入学したのは昭和43年(1968年)。今から54年前、半世紀以上前で今更ながら驚いております。学院は父の職場だったので、子供の頃から学院祭などに連れて来られていました。その頃の思い出は、鉄道研究部のNゲージのジオラマ、ゴルフ部が行っていたいわゆる鳥かご(ネットの中)での試打(前のネットに当たるとチョコレートが貰えた。)など。恐らく小学校低学年だったと思います。この環境で育ったものですから、学院を意識するのはごく自然なことでした。そして、いくつかの学校を受験し、運良く学院に合格したわけです。
ここで、少しこの時代を思い返してみたいと思います。この時代は、何となく『今』を形作る礎のような気がしています。例えば、ビートルズの初来日が1966年、前年にはベンチャーズが初来日しています。今では大人も読んでいる漫画雑誌の創刊。「少年サンデー」、「少年マガジン」は私が小学1年生時に創刊。そして、1968年には「ビッグコミック」「少年ジャンプ」が創刊され、あの「ゴルゴ13」の連載が開始されるのです。これらが、現在の世界を席巻している「Japanアニメ」の原点のような気がしています。この年の事件を見ますと、1月に「東大闘争」が始まり、翌年1月の「安田講堂事件」に繋がります。そして2月には「第一次成田デモ」、12月にはあの「三億円強奪事件」が起きるのです。その他トピックとしては、川端康成氏のノーベル文学賞初受賞、日本初の心臓移植手術、イタイイタイ病の認定。インフラ面でも「都営浅草線」「都営三田線」の開業、東名と名神の接合など。エンタメ系では、「夜のヒットスタジオ」放送開始、和田アキ子デビュー、グループサウンズの全盛、ビートルズ「ヘイジュード」ビルボード誌1位など。挙げたらきりがありません。私も中学2年の時、マッシュルームカットにエレキギターでバンド結成も経験しました。(野球部だったので頭は冬だけ。すぐに解散。)このように、良くも悪くも活気に溢れた時期だったと思います。時の総理は故佐藤栄作氏(第二次佐藤内閣)でした。
話しを学院入学時に戻しましょう。当時は、あくまで印象ですが、生徒全体が活気に満ち「やる時にはやる」的な精神が溢れていたように思います。勉強も遊び(部活動も含む)もできる範囲で全力で取り組む、「勝負には絶対負けたくない。」精神が旺盛だったように思います。時代が「学生運動」真っ只中だったので、完全な「ノンポリ」(ノンポリシー)はついて行けなかった。その中で何とか自分を見出そうとしていた訳です。実際、学院生徒会も学生運動の末端らしき活動をしていました。いわゆる生徒自治活動です。私が2年生の時、制帽が自由化(廃止かどうか定かではない)されました。また、授業も担当教員の評価を個人個人行い(心の中で)、直接何らかの行動に表しました。(今考えるとゾッとしますが。)つまり、意味も無くただ「Yes」は嫌ですよ、という発信です。もちろん、その矛先は学校、教員に留まりません。生徒(仲間)に対しても厳しい評価を下していました。非常に粗削りではありますが、成長過程では必要なことだったと思います。これだけではありませんが、私の精神的成長のスイッチを入れてくれたのは級友でした。それもなんと年上の。入学当初、わがクラス(仏、露クラス)には既に数名の先輩が居ました。学院の1年間は、想像以上の精神的成長があります。彼らは、このことを身を持って教えてくれる極めて優秀な教師だった訳です。この後も順次先輩は増えてゆき、3年生の時には倍以上の人数になっていました。この「年上の人」のみならず、私がここに居られるのは「友人」のお陰なのです。先ほど来、「評価」と言ってきましたが、この評価こそ素晴らしい友人を見つける手立てなのだと思います。学院に奉職以来、このことは生徒に伝えてきたつもりです。勿論、現在もその友人達との良き関係は継続中です。
さて、最後に教職に就いてからですが、初めの3年間は都内の某私立高校で過ごしました。そこで学んだことは、「生徒にいい加減な嘘をつかないこと。」でした。生徒であっても相手をリスペクトし真剣に向き合うこと、これが一番です。こちらが真剣になれば相手も真剣になります。そこでは、「教師なんか、格好を付けて威張るだけじゃん。」て思ってる。格好を付けると直ぐに見透かされて手痛い目にあいます。本当に勉強になりました。そういう意味では学院よりもシビアでした。そしてその後、27歳の時学院に戻ってくることになったのです。私が学院生に求めることは昔から全く変わりません。とにかく自分で成長しろ、です。この時期は勉強の他に学ぶべきことが山積しています。私の仕事は、これを実践してもらうきっかけを作ってやることだと思っています。大事なことは、こちらが成長し変わっていかなければ相手に聞いてもらえない、ということです。授業中、部活中、HRどこでも良いのです。もともと潜在能力の高い生徒達ですので、理解してもらえば実践します。これを長年実践してきたつもりです。
ここまで取り止めのない話をしてきましたが、学院教師生活42年目を迎え、多くの学院卒業生の私への評価があると思います。良いも悪いも定年まで来てしまいました。学院生当時を思い返せば、私自身は決して自慢できる学院生活はしていませんでした。何とか適当にやり過ごそうとしていたように思います。自戒の念が強いです。残念ながら、来年3月に定年を迎えます。その後は楽しいことだけをする生活を堪能したいと思っています。少年達に語ることは出来なくなりますが、まだまだOBには語ることが出来るかもしれませんね。
これで話を締めたいと思います。有難うございました。
(高等学院 保健体育科教諭)