【OBの活躍】「気候変動対応の国際的なルールメーキングとの関わり」 33期 長村 政明

1982(昭57年)年卒 33期 長村 政明 B組 政経

気候変動対応の国際的なルールメーキングとの関わり

 同窓の真ちゃん(学院同窓会理事の山口真一さん)からのお誘いで本稿を執筆することになった。学院で作文と言えば、俄かに思い出すのが作文指導を頂いた故伊藤助松先生である。クラス全員の作文をガリ版印刷用の原稿に書き写し、プリントにして配布されていたことが印象に残っている。生徒一人々々の顔を思い浮かべながら鉄筆を握っておられたに違いない。助松先生は学院の図書室も主管しておられ、生徒には熱心に読書を薦めておられた。高校の図書室として最大級と言われた学院の図書室は自分にとっては貴重な空間であった。学院入学まで過半を海外生活していた自分にとって、学院のカリキュラムに追いついていくことは容易ではなかったこともあり、図書室の豊富な書籍には大いに助けられた。こうした事情もあり、助松先生は担任の故松尾先生とともに学院在学中に最もお世話になった恩師であることから、今回のご依頼は助松先生からの宿題と受け止め、感謝の気持ちを込めて書かせて頂くこととした。
 さて、学院卒業後は政治経済学部・経済学科を経て、1986年4月に保険会社に就職した。就職先では学院出身の多彩な先輩・同輩・後輩に恵まれたが、同じB組出身の梅田君、唐津君と同じ会社に3人揃って入社できたことは驚きであり、心強かった。入社後は営業、業務、米国のシカゴ駐在を経験したが、直近の17年半は現業を離れ、国際的なルールメーキングに携わっている。とりわけ得難い経験となったのが、気候関連情報開示タスクフォース(TCFD)であり、その中から感じてきたことを取り上げたい。

TCFDメンバーへの期待を表明するMichael Bloomberg氏

 金融庁の依頼に応える形で2015年12月に金融安定理事会(FSB)が設立したTCFDのメンバーに就くことになった。FSBは主としてG20各国の金融当局や中央銀行等をメンバーとする組織で、国際金融市場の番人の役割を果たしている。そのFSBがG20財務大臣・中央銀行総裁会議の要請を受け、金融セクターにおける気候関連リスクの可視化を進めるための枠組みを検討させる目的で世界各国の民間有識者を集めて発足させたのがTCFDである。筆者は2012年に国連環境計画・金融イニシアティブが発足させた「持続可能な保険原則」の起草に関わった経験などが認められ、日本から唯一のメンバーとしてTCFDに臨むこととなった。2022年4月よりプライム市場に上場する企業にはTCFD提言に基づく開示が要件とされることもあり、最近でこそTCFDの認知度は上がってきたが、活動が始動した2016年当時は知る人ぞ知る存在であった。TCFDがFSBより付託されたのは、投資判断に資する気候関連リスク・機会の開示を促す環境作りであった。気候変動がもたらすリスクとしては、台風などの気象災害が激甚化することによる物理的なもののほかに、社会が脱炭素化する過程で排出規制の強化等によって生じる移行リスクと呼ばれるものがあると整理された。これらのリスクとともに、それらがもたらす機会と併せ、金融/非金融を問わず、あらゆる企業を対象として、現状はもとより、シナリオ分析等を用いてフォワードルッキングな視点を織り込む形で開示を促す枠組みを一年半がかりで策定し、2017年6月に公表した。TCFDはマイケル・ブルームバーグ元ニューヨーク市長を座長とし、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資に深く関わる著名な専門家も少なからずメンバーにいたことから、この仲間に入れてもらえたことは大変な栄誉であったが、同時に大きな精神的プレッシャーも伴った。気候変動に関連する論議においては、脱炭素移行で主導権を執ろうとする欧州勢に対し、日本は守勢に立たされる構図であったことから、TCFDでの論議が日本の産業界にとって不当に不利益をもたらすことのないよう、意識する必要があった。このため、とりわけインパクトを受けやすい、二酸化炭素を多く排出するセクター~例えば、電力、鉄鋼、化学、自動車など~の業界関係者とは密に連絡を取りつつ、TCFDでの論議の場では積極的に発言することを心掛けた。各社へのヒアリングを通じて、改めて本邦産業界の省エネ技術力の高さを学ぶとともに、それに裏打ちされた自負を感じ取った。決してスムーズな道のりではなかったが、結果的に日本産業界の声は概ねTCFD提言へ反映させることができたと考えており、この点では救われた思いでいる。TCFDの内容については提言の和訳をはじめ、既に多くの解説も出されているため、そちらへ譲るとして、ここでは国際的なルールメーキングに関わったことによって気付いた事々を述べたい。

 まず議論の進め方について印象的なのが、自社の置かれた現実や実行可能性を重視する日本企業のマインドセットとは異なり、まずは掲げるべき理念やプリンシプルの定義付けから始まる点である。枠組みの客観性や公平性を担保するために、まずは誰が聞いても異を唱えにくい筋立てを築く論議に結構な時間を掛ける。こうした話は抽象的な上、哲学的な論争にも及び得ることから、自分もそうであったが、多くの日本人にとっては苦痛であるに違いない。然しながら参加国の国益が絡むルールメーキングにおいては、プリンシプルの確認から入ることはとても大事なのである。好むと好まざるとに関わらず、国際的な議論に参画する以上はこのプロセスは避け難く、そうした文化を受容していくほかないと感じた次第である。
一方、国際的なルールメーキングの議論は気候変動/エネルギーのテーマにおいて顕著なように、高い目標を掲げ、理念先行で進む傾向があり、そのこと自体を問題視するものではないが、理念に基づいて築いたルールが理路整然としていても、実施段階において機能するとは限らない。開示枠組みの議論でしばしば経験してきていることだが、欧州からの参加者が理念先行で議論を進め、危うく開示実務上対応が難しい要件を盛り込まれそうになったことがある。いかに理論的に優れていても、実行段階で行き詰まるようであれば、国際標準たり得ない。しかしそのような場面でこそ日本は力を発揮する余地がある。日本ほど有言実行の文化が浸透している国はなく、意思決定に時間を要するものの、ひとたび腹を決めたら、約した事を簡単に反故にすることはしない。TCFD提言に基づく開示を国際社会で最も普及させてきているところに日本企業の真面目さがよく表れている。真面目に取り組むからこそ気候関連開示の実務上の困難さをよく心得ており、その経験を踏まえた改善提案が訴求力を持つ。これだけ地に足がついた問題指摘とそれに根差した提案を行える国も限られており、日本の提案力はレスペクトさえ勝ち得ることも分かった。
 日本企業は横並び意識が強いとの批判を国内ではよく耳にしており、そうした批判を全否定するものではないが、私はそうした批判を逆手に取り、特に脱炭素移行のように企業単位では解決不能な社会課題については、企業各社が価値観を共有し、同じ方向に向かって歩めることを国際社会への対峙において、オールジャパンの強みとして活かしていくべきではないかと思っている。各論では利害の交錯はあるのかもしれないが、昨今では様々な業種において脱炭素社会への移行に向けたロードマップ作りが始められていることに加え、業界の垣根を越えて協力する取組みが幾つも芽生えている。有言実行力と相互連携する力を日本の強みとして打ち出し、アジアをはじめとする開発途上国の共感を得る形で国際世論への影響力を発揮するポテンシャルは高いと見ている。

 最後に一つ加えるとすれば、政策論議へのリソースのかけ方の違いは如実に感じるところであり、ここは日本の企業経営者には意識的に強化して欲しいと望むところである。欧州連合(EU)が気候変動に限らず国際的な政策論議において主導権を握る傾向があることは周知の通りであるが、その背景には構造的に如何ともし難い面があることは否めない。つまり、EUが市場として機能するためにはメンバー27カ国で共通するルールが必要であり、更にEUのルールがグローバルスタンダードになることで国際競争力が生じることから、ルールメーキングそのものが戦略性を帯びると考えられる。翻って日本にはそのような図式が当てはまらないことから、ルールメーキング自体に戦略性を認める風潮はなく、政府関係者や資源・エネルギーを扱う企業はさておき、一般の企業では政策論議に能動的に関わる機能を持っているところが少ないように見受けられる。社会構造の異なる欧州の向こうを張るべきと主張するものではないが、国際的な論議において日本の国益を反映させていくこともさることながら、もう一歩踏み込んで、日本の知見や技術力をとりわけ開発途上国の発展に資するような形で国際社会に働き掛けていくために、企業においても我が国の声を対外的に発信していく機能を強化していくことはもっと考えられてもいいのではないかと感じている。

 TCFD策定への参画という機会を得られたことで、それまでは意識が及ばなかった日本の実力に気付かされた思いである。2050年までのネットゼロ排出達成という難度の高い目標が国際的に主流視される中で、日本は高い技術力を通じてその達成に貢献できる材料を豊富に持ち合わせた貴重な国であることは疑いなく、このことを誇らしく感じるとともに、日本の持つ課題解決力を国際社会に訴えるべく行動を興す人が増えることを願っている。