【OBの活躍】「転機ー職人への道」16期 増井 萌

  1965(昭40)16期 増井 萌 J組 工経

「転機―職人への道」

 私は増井組紐店(大正時代創業で当時の名称)の長男で、他に姉と妹が居りました。私が昭和37年に学院に入学した際、父とは三代目は姉か妹に継承させるという約束でした。学院時代はサッカー部に所属し3年の時はキャプテンとして全国大会出場を目指しましたが叶いませんでした。

 昭和44年3月に理工学部工業経営学科を卒業し、卒論はシステム設計でした。卒業後4月に愛知県常滑市の伊奈製陶株式会社(当時の名称、その後INA->INAX->現在はLIXILグループに名称変更)に入社し、入社後は経理部電算課に配属になりました。当時は電子計算機と呼ぶ時代で、SE兼プログラマーとして働き始めました。

 3年後、当時の外装タイル工場を電算化するため、SEとして外装タイル工場へ転勤となりました。外装タイル工場から電算課へ出向していた3年先輩の方と3年間かけて工場の生産システムの一部を設計し、稼働しようという段階まで来ました。

 しかし、その時伊奈一族の有力な役員の方が工場長になり、電算化は当分中止となりました。それでは以前の決定が経営のどの段階でどの様に行われていたのか入社5年目程度の私では判りませんでしたが、同族経営の不合理さを痛感しました。その後、外装タイル工場から電算課へ戻りましたが、仕事にもう一つ身が入りませんでした。入社7年経過後、今度は物流部門の電算化の話が持ち上がり、私が出向するという事になりました。

 一方、当時の実家は姉と妹が嫁にゆき、増井組紐店を継承する者が誰もいない状態になっておりました。当時の田舎では両親の老後は長男が面倒を看るという風習は根強く残っていました。同族経営の不合理さ、長男としての責任、わざわざ東京で学院に行き大学で勉強をした意味があったのか、当時結婚をしていたので常滑市で住宅を購入するか等の諸問題があり、増井組紐店を継承するかかなり悩みました。

 それまで全く組紐に携わっておりませんでしたしたので、職人の世界に飛び込んでやってゆけるものか、父、家内共々いろいろ話し合いました。最終的に、30歳の時に組紐の世界に入りました。

 ここで組紐とはどのようなものかをお話します。

 日本での組紐の歴史は飛鳥時代まで逆上りますが、詳しい歴史は省略します。当伊賀上野では明治時代後期に再興され、当時も今も主として着物の帯乄、羽織紐として使用されております。着物の帯の上に帯が解けないように結ぶのが帯乄です。

 私が継承した頃は、着物離れが進んできた頃でしたが、しかしまだまだ着物は根強く着られておりました。

組紐には手組紐と機械紐があり、手組紐の中にも各種あり、増井組紐工房(三代目継承後に名称を一部変更)は、父の時代より手組紐の高麗組が専門で私もこれを継承しました。高麗組は手組紐の中でも高台という組台を使用して超高級品を組み上げます。

 しかし、複雑で生産数量は上がりません。この高台の技術は国の伝統的工芸品に指定されております。この技法を習得するのがまず最初の関門でした。全くの未知の世界でした。

 その頃中卒のある職人から云われた言葉は「30面(ヅラ)下げて今頃のこのこ帰ってきてもものにならないぞ」という皮肉でした。ここでの今に見ておれという反骨心がその後の向上の支えになったのではないかと思います。その後は、無我夢中で技術の習得に励み、かなり苦労し、努力をしました。

 高台の一工程で「あやがき」の作成という工程があります。この工程を習得した際、これはシステム設計およびプログラミング化が可能だと判りました。当時、我々の様な小企業でも「マイコン」が利用可能になってきていたので、システムを設計しプログラム化する事で日本で初めて「あやがき」の自動化ができました。これは以前の仕事を生かせた事例です。

 お陰様でその後の商売は順調にゆきました。それを述べていては私の一生になりますので、紙面上割愛しますが、これが私の転機でした。

  参考) 伊賀くみひも : 毎日新聞 東海ワイド版記事より

 組紐を継承したことが良かったかどうかは判りませんが、伝統工芸士として、15年間伊賀くみひも伝統工芸士会会長を、更に3期6年三重県伝統工芸士会会長を勤め、経済産業大臣表彰、三重県知事優秀技能賞表彰をいただき、伊賀青色申告会会長として中部経済産業局長表彰をいただきました。

 最後に、私自身増井組紐工房三代目の道を歩んで満足でした。