【思い出】「やっとたどり着いた学院、父、アイスホッケー」 33期 安藤 勝

 1982(昭57)卒 33期 安藤 勝 B組 法

「やっとたどり着いた学院、父、アイスホッケー」          

 いつも自分の高校時代を知らない人に、経歴を説明するのに少し時間が掛かる。というのも、大学は現役生より1年遅れで卒業、学院にも1年遅れで入学したが、留学した訳でも浪人した訳でもないから厄介である。理由は後程。

早稲田のアイスホッケーとのご縁

小学生時代 (品川プリンスJRアイスホッケークラブ)

 話は変わるが、私は小学生の頃よりアイスホッケーをはじめ、父が慶應出身という事もあり、毎年早慶アイスホッケー定期戦を観戦していた。「いつかは自分もこの舞台に立つんだ」と子供ごころに思ったものだ。小学校~高校まで所属していた「品川プリンスJRアイスホッケークラブ」の2年先輩には、慶應幼稚舎出身の星野リゾート「星野 佳路」さんがいて、いつも「安藤も慶應に入って俺と一緒に強くするぞ!」と言われていた。それ故、中学・高校受験は慶應を全て受験したが全滅。同じくホッケーの同級生の山中雅雄君(32期 C組、現在、弁護士として活躍中)は学院に合格。自分は不合格だったが、「大学は早稲田に来いよ!」と言われ、唯一のすべり止めの都立小山台高校に進学する事になった。(小山台高校は父の母校でもある。)

 二学期の始め、進学希望の面談があり、「安藤君はどこの大学を目指してるの?」と聞かれ「早稲田か慶應でアイスホッケーがやりたいんです!」と答えたら、「今の成績だと一浪は覚悟しといて。」と冷たく言われてしまった。その事を家で話すと、一週間後、父から「来年、もう一度学院を受験してみないか?電話して聞いたら1年遅れまでは受験できると言ってた。慶應は内部留年生が多く、受験不可だって。うまく合格できれば一浪と同じだし、受験勉強しないでホッケーに専念できるぞ。」と思ってもみなかったアドバイスだった。

(この何人も受入れる寛容さが、学院と塾高の差であり、早慶の差でもあると思う。)

 そんな事で学院2回目の受験を決めた。といっても特別に受験勉強をした訳ではない。小山台高校では数学は1年で数ⅡBの2/3くらいまでやるし、宿題は滅法多かった。(そのおかげで、学院でも途中までは数学は楽ができた。)英語も学院の試験の英語は、ちょうど高1レベルで小山台高校の勉強が活き、受験に臨んだ。(受験前の1月末には国体(岩手開催)選手に選ばれ余裕を見せ参加した。)

 2回目の受験は1回目と違って手ごたえがあったが、まさかの不合格。まあ、また大学受験すればいいやと思っていた矢先、これまでの学院では無かった「補欠通知」が届き、希望者は二次試験を受験せよとの事だった。なんてついているんだ。

 二次試験の作文のお題は「梅の花」。非常に難しいお題だったが、自分の経験を元に、「受験の前には毎回、湯島天神に願掛けに行くのが恒例だったが、その頃は境内の梅はつぼみの状態。これまで一度も希望校に合格したことのない自分は、梅の花の咲く頃の季節になるお礼のお参りをした事がない。今年も一度は諦めていたが、この試験を突破し、梅の花のもとにお礼のお参りができそうだ。」てな事を書いて合格した。(いいか悪いか入学後も作文のお題で正規合格か補欠合格かすぐに区別できた。自分を除き、優秀な奴は「梅の花」が以外と多かった。)

 学院に入学するに際して、山中君から「フランス語・美術が楽勝!」と言われB組になった。B組には中学校の後輩が2人、同じ年の奴が3人いてすぐになじむ事ができた。そして人生初の出席番号1番に。「あ」で始まるのは自分だけで、珍しいと思っていたら、「い」で始まるメンバーがなんと9人も。ちょっと偏りすぎ。

 また、休み時間に自分が何か変な発言をすると、「安藤、それはいかんちゃ!すかんちゃ!!」と訳の分からない方言で山口真ちゃん(現学院同窓会副理事長)に怒られた。個性豊かなこのクラスが今も大好きで、昨今はコロナ禍で集まれないのが残念である。

学院時代 国体3位 (22年ぶり)  後列右から3番目が筆者、左が山中君

 学院では、アイスホッケー部が無かったため、部活動には入らなかったが、その分アイスホッケーは、自分のチーム以外の練習にも毎日のように参加し、スキルを上げる事ができた。これも受験勉強が無い学院に入学したからなせる事である。学院1年生の時も、昨年同様、国体東京都代表に選出された。国体出場(北海道開催)のため休む旨、担任の松尾先生に伝えた日の翌日、昼休みに山中君とウエイトトレーニングをしていると、校内放送で、「2年C組山中君、1年B組安藤君、至急院長室まで来て下さい。」とのアナウンスがあり、山中君とふたり「俺たち、なにか悪い事した?ホッケーの練習の後、六本木で遊んでるのバレたか?」とドキドキで院長室に向かった。すると院長先生から「部活でもないのに二人も国体に選ばれるなんて素晴らしい!がんばって!」と言ってポケットマネーから1万円づつお

小遣いを頂いた。山中君も「学院っていいところだろ。去年は俺一人だったからくれなかった。安藤のおかげだよ。」と言ってもらった。

大学時代 早慶戦 左が筆者

 国体(山梨開催)少年の部最後になる翌年も二人でお小遣いを頂き、準決勝で栃木に惜敗したものの、3位決定戦では青森県に勝ち、東京都としては22年ぶりの3位となる事ができた。大学受験があれば参加はできなかっただろう大会でもあり、本当に学院に来て良かったと思える瞬間であった。(自分にとっては、この年が高校生として参加できる最後の年でもあり、高校生での最後の試合である国体を勝って終わることができたのが何よりの思い出である。)

 大学生になり、最初の試合が「春の早慶アイスホッケー定期戦」。慶應のエースであった星野さんには「なんで早稲田にいるんだよ!」と少し嬉しそうに言われた。

 4年間、計8回の早慶戦はすべての試合で得点し、勝利する事ができた。また、4年生最後の大会であるインカレも高校の時と同様、準決勝で明治大学に敗れたものの、

最後のインカレ3位 (19年ぶり) 左端が筆者

3位決定戦でリーグ戦では4年間一度も勝てなかった法政大学と対戦。自分も同点ゴールを決め、勝利。早稲田大学としても19年ぶりの3位となった。大学最後、そして人生最後の勝利を目指した試合を勝って締め括る事ができた。高校・大学ともに最後の試合を勝って終わることができたのも、学院に入学していなければ叶わなかったと思うと感無量であった。

息子2人は慶應のアイスホッケー部

 その後、月日を経て私の息子たち2人もアイスホッケーを始め、当然の事ながら中学受験で早稲田を目指

右側が次男

すことになる。その頃はまだ学院に中学部はなく早実という事になったが、見事不合格。自分とは逆に二人とも慶應に合格し中学から進学。その後二人ともライバルである慶應大学アイスホッケー部に入ることなる。次男が慶應高校へ進学すると、早慶アイスホッケー定期戦には、OB戦(自分)・高校戦(次男)・現役戦(長男)と全ての試合に家族で参加できたのが今でもよき思い出である。次男はその後慶應大学1年生の時、U20日本代表にも選ばれ、塾長賞を頂いた。ちょっと自分を超えられた感があり、悔しいやら嬉しいやら。

 長男・次男とも、兄弟合わせて16回の早慶アイスホッケー定期戦では早稲田相手に善戦はするものの、全敗。しかしながら次男が4年生で主将の時、春のトーナメントで早稲田と対戦。次男の3ゴール(いわゆるハットトリック)もあり、5-3のスコアで公式戦では早稲田に42年ぶりに勝利した。

 早稲田OBの自分としては、「まさか慶應に負けるなんて」と思う一方、成長した我が子が早稲田を破った喜びも一入であった。早稲田の諸先輩からは、「最近は慶應も力をつけてきたけど、まさか負ける日がくるとは思わなかった。安藤の子が早稲田にいたら楽勝だったのに。でも、おめでとう!」と言って祝福してくれた。(この時の早稲田の監督は自分の2年後輩で、この年限りで交代させられてしまった。慶應に負けたのが原因らしい。ごめんなさい。)

 慶應では、この久しぶりの早稲田戦勝利のご褒美としてその夏にOB会が全て資金をだしてくれてカナダ・トロント大学との試合を組んで頂きカナダ遠征をプレゼントしてくれた。(やっぱり、慶應のOBはお金持ちが多くていいなと思うのであった。)

最近の早慶戦OB戦

 早稲田と慶應は永遠のライバルであり、学生スポーツの人気を牽引する両輪である。早慶アイスホッケー定期戦は、今や国内のアイスホッケーの試合では最も観客動員数の多いの試合であり、TV放映があるのも全日本選手権決勝(NHK)と早慶戦(BS朝日)だけである。

 早稲田・慶應ともOBの方々に支えられ、厳しい環境下にありながら競技を続けられている事を忘れてはならないと、この年になって再確認するのであった。(OB会費、忘れずに払わないと。)

 以上、他愛のない思い出話となってしまったが、今は亡くなってしまった父のアドバイスが無ければ自分は学院に入学する事もなく、早稲田にはいなかったかもしれない。そしてアイスホッケーでも節目の最後の大会を勝利で終える事もできなかったかもしれない。

父が亡くなる前に話してくれた。

「自分も本当は早稲田に行きたかった。でも、慶應の方が合格発表が早く、入学金を払ってしまったので、やむなく慶應に行くことになったんだよ。おまえが、早稲田でアイスホッケーやってくれて本当に楽しませてもらった。本当にありがとう」と。

今でも父の墓前に手を合わせるたびに、40年以上前の事を思い出し、父の機転の利いたアドバイスと学院・早稲田の寛容さへの感謝の気持でいっぱいである。                                           以上