【今思うこと】「学院の魅力「高大一体」~~入試面接で私の人生の方向も決まった」18期 梅津時比古

                      1967(昭42)年卒 18期 梅津時比古 J組 文

(毎日新聞特別編集委員 桐朋学園大学特任教授)

学院の魅力「高大一体」~~入試面接で私の人生の方向も決まった

筆者

 桐朋と言えば、世間一般の人は「あぁ、小澤征爾さんの学校ね」とうなずく。小澤さんの頃には大学はできていなかったが、チェリストの斎藤秀雄さんが小澤さんたちを第一期生として戦後に始めた「子供のための音楽教室」が発展してきて、現在の形になった。そのころのごちゃごちゃした音楽教室の雰囲気が今も大学に残っている。
 桐朋学園の法人は3部門に分かれていて、国立市に男子校があり、調布市の京王線仙川駅近くに女子校がある。そして音楽部門が戦後、女子校の敷地の一角に加わった。実は、音楽部門の高校は、組織面においては女子校に組み入れられていて、非常に分かりにくい。そのため、日本音楽コンクールなど名だたるコンクールで音楽部門の男子高校生が入賞すると、肩書きは【○○・○太郎=桐朋女子高等学校音楽科】という訳の分からない表記になる。この妙な肩書きのため、男子の名前で桐朋女子高等学校在学と新聞やウェブに発表されると、必ず、間違いではないか、と問い合わせがある。また、音楽部門の男子学生が身分証明書を見せると女子高等学校と明記されているため、怪しい目で見られるという笑えない話もある。最近は日本音楽コンクールなど各所で、【○○・○太郎=桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)】と、(男女共学)を入れた表記になっている。
 そのように高校と大学が組織的には別になっていることが背景にあることも加わってか、音楽部門では「高校と大学は一体なのだ」と強くうたっている。実際、音楽部門の高校と大学は同じ教育形態を取ってきた。音楽専門の特徴であるレッスンは高校、大学と基本的に同じ先生になるし、授業の時間も高校は大学と同じ90分。問題は、授業料も高校と大学と同じなので、ほかの高校に比べると飛び抜けて高いことだろう(医学系、音楽系の大学の授業料は高い)。       

宗次德二氏の寄付を頂いて2021年に完成した桐朋学園宗次ホール

 私が桐朋学園音楽部門に関係し始めたのは2010年からだが、最初にやはり「高大一体」の魅力を説かれた。そのとき私は、それをいとも自然に感じて、特に驚かなかった。なぜだろう、と自問しているうちに、高等学院がまさにその雰囲気であったことに思い当たった。
 事実、当時の「学院」には多くの大学の先生が教えに来ていた。そのなかには、フランス文学・哲学専門で、特にジャック・デリダの研究で高い評価を得ていた高橋允昭先生、横光利一の研究家の保昌正夫先生などがいた。職員室に行くと、それらの先生がたが談論風発の雰囲気で、自分もなにか大学生、あるいは大学院生になったような気がして、背伸びする年頃としては、なかなかに誇らしかったのである。私は文系であったが、理系で建築を目指していた学院の友人も似たようなこと(つまり建築界で名の通った先生に教わる喜び)を口にしていた。
 そもそも学院の面接を受けたときの面接官の先生にも、子供心に、人間味あふれる優しさと、知的な高さを感じ、「この学校に絶対に入りたい」と強く思った。学院に入ってから、その面接官が、フランス哲学を研究し、バシュラールの専門家として名高い掛下栄一郎先生と分かった。私はそのような先生方と話すうちに、すっかり大学生気取りになって(受験勉強が無かったせいもあり)、同人誌を作り、哲学的エッセイや短編小説などを書いて発表していた。私が当時の学院生としては珍しく自ら文学部の西洋哲学科を志したのは、まさに学院の入試面接にさかのぼるのである。そのように自由勝手にしていた私に、担任の杉山信先生(体育)は何も言わず、あるとき不意に早稲田の大先輩の小説家、文芸評論家で、太宰治、梅崎春生、石原晋太郎、三浦哲郎らを見いだした浅見淵(あさみ・ふかし)先生のご自宅に連れて行ってくれた。

学院3年の修学旅行(九州)

 大学では掛下先生に卒業論文の主査をお願いし、先生に「大学院に残ったら?」と言っていただいた。私は毎日新聞に入社したが、学院から大学まで掛下先生には憧れ続けていた。その背景はまさに「高大一体」の雰囲気で、私にとっては背伸びすることが向上心にも結びつくことであった。
 そして「高大一体」のなせるわざだろう。学院は「自由」であった。高等学院はわずか3年間だが、皆その雰囲気を身に付けているように思える。どこか、違うのである。
 桐朋女子高等学校の現在の今野淳一校長に会議などでお会いしてお話を重ねるなかで、その素晴らしい人間性に感じいったのち、実は学院生!と分かって跳び上がるほど嬉しくなった。そして今回、この原稿を書かせていただくきっかけとなった山口真一さん。クラシックの殿堂のひとつ、紀尾井ホールには桐朋学園音楽部門がさんざんお世話になり、学生や先生がさまざまな注文をする。そのとき、運営側の山口さんが実に理解のある方だなあと感激していたところ、その山口さんが、学院生だったのである。