【OBの活躍】 「第60回甍(いらか)演奏会 (2) ―甍演奏会のDNA―」 14期 山下公輔
1963(昭38)年卒 14期 山下公輔 J組 建築
「第60回甍(いらか)演奏会 (2) ―甍演奏会のDNA―」
1962年第1回甍演奏会の時、私は17歳の高校3年生。学院に入学し合唱を始めて2年余りの「少年(?)」だった。その年のグリークラブ責任者として、演奏会を「創る」先頭に立つ先輩方の後について走り回っているうちに、いつの間にか自分の今にもつながる大演奏会を経験することになったというのが正直な思い出だ。
年を経て大学を卒業し社会人となり数年たった1973年夏、第12回甍演奏会で歌った直後に海外赴任となり日本を去り、その後20年に亘り合唱からは遠ざかっていた。しかし、20年の不在の後、ごく自然にいらか会/甍に復帰し今に至る迄合唱を続けている。そんな私が在るのは、60年前の第1回に続く10年余りの間の甍演奏会の影響力が大きかったと感じている。今思えばたった10年だが、この間に私は少年から大人になった。大学の専攻を決め、就職し海外畑を選び、結婚し長男が生まれるなど、公私にわたる自分が形成された年月だった。
合唱が私にとって大きな存在となったきっかけは、学院でグリークラブに入り、未だ30代初めなのになぜか「オヤジ」と呼ばれていた関屋晋に出会ったことだ。その頃のオヤジはプロの合唱指揮者への道を踏み出したばかり。後に晋友会を率いて海外遠征をする大指揮者へと変貌していくずっと以前であり、貴重な時を共有できたと感じている。発足して何年も経っていなかったいらか会がそのオヤジを担ぎ、学院グリークラブ、コール・フリュ。そして、その力をまとめたのが、オヤジ世代の岡山さんや佐久間さんなど「大人」―と言っても当時は未だ30代―の方々の力だったと思う。
更に、第1回から数年の初期の「甍」にとって、ひいては学院やフリユーゲルにとって大きなインパク卜となったのは、第1回甍演奏会に当たって、オヤジが当時親交を深めていた福永陽一郎を引き込んだことだと思う。福永陽一郎といえば、年齢はオヤジと2歳ほどしか違わないが、当時既に合唱やオペラの世界でそれなりの地位にあった指揮者・編曲者で、ユニークな言動や佇まいでも知られた音楽家であった。その第1回甍演奏会の目玉が、福永陽一郎指揮による三団体合同の「枯木と太陽の歌」であり、学院生の私にとっては、まさに大人の合唱に参加したと云う思いを抱きながら歌った演奏会であった。
その後続く甍演奏会では、グノーのミサ、マーラーのさすらう若人の歌、ケルビー二のレクイ工ムなど、今は余り歌う機会の無い大曲やオーケストラ付きの演奏をする一方で、ブロードウェイミュージカルを歌うなど、バラエティのある演奏が続いている。当時の合唱団で、このような試みを次々と実現したところは余り無かったのではないかと思う。そしてもう一つ、第2回以降長い間、今ではアマチュア合唱団など簡単には利用できない東京文化会館の大ホールを本拠地の様に使っていた、まさに「大人」の合唱団「甍」であった。
今や60年の年月が経ち、長年のモメンタムの蓄積もあり毎夏に当然の様に開催している甍演奏会だが、身の丈を越えるような新しい試みを次々と展開しその流れを持続させてきた演奏会の初期の頃に思いをはせると、当時の中心となった先輩方の情熱と力に改めて感銘を受ける。そしてその歴史の上に、当時15歳から35歳だった年齢幅が、今や15歳から85歳と云うギネスブック並みになった今日の甍演奏会が在る。
書きたいことは多くあるが、節度を守って思い出話はこの位にするが、第1回甍演奏会には、単に60回続いた演奏会の起点という以上の意味があると感じている。
甍を構成する3つの合唱団の60年の歴史は決して平坦なものでは無く、三者三様の起伏と試練を経験しているが、その歴史を常に共にしてきたのが甍演奏会だ。甍でしか実現できない幅広い世代がその歴史を共有し、今日の第60回演奏会で「枯木と太陽の歌」の再演が出来ることに大きな喜びを感じている。