【学院トピック】 扁額 『母校のかとに立ちて』 会津八一先生の来歴 久保田学 (高等学院事務長)
久保田 学 (高等学院事務長)
扁額『母校のかとに立ちて』
【作品情報】
・會津八一 (1881~1956年、歌人・美術史家・書家)の書 紙本墨書 40.0×204.3cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%85%AB%E4%B8%80
「たちいてて とやまかはらの しはくさに かたりしともは ありやあらすや」
(大意)
「立ち出でて 戸山が原の芝草にすわって語り合った友は、今も生きているのだろうか、
それとも死んでいるのだろうか」
これは高等学院院長室に飾られている會津八一による書の扁額です。會津八一は書家、歌人、美術史家として知られ、早稲田大学における美術史学の創始者であり優れた教育者でもありました。
1927(昭和2)年秋、47歳の時、大学創立45周年を記念する大隈講堂竣工記念式典で會津は、高等学院教授を代表して「実学論」と題する講演を行います。
「実学には世の中の為になるような学問と、自分の身になるようにする学問の二つがある。自分がいいたいのは後者で、どうすれば学問が真にわれわれの身につくようになるかということである。
われわれは物に接し、物を見、これを知り、これを信じるためにはよほど用意してかからなければならない。文献があり伝説があっても、これを信じて疑わざらんとするには慎重な用意がいる。われわれを最も有効に用意せしめるものは一にも二にも実物である。千の文献よりも一つの実物である。実物の権威、何物もこれを遮ることができないのである」と述べ、実物を介して学ぶ意義を訴えました。
1906(明治26)年、早稲田大学英文科を卒業し故郷新潟で中学教師となった會津は、1910(明治43)年、大学時代に講義を受講した坪内逍遥の招聘により30歳で早稲田中学に赴任しました。
1918(大正7)年に38歳で教頭となった會津は、人間教育に主眼を置くこと、早稲田の建学の精神にもとづく教育を実践することを理念として教育に精力を傾けました。「実学論」の講演内容や早稲田中学で教育に取り組む姿には、その後、高等学院教授を経て早稲田大学文学科講師となった會津の早稲田と教育にかける情熱が感じられます。
『母校のかとに立ちて』は、『山光集』(養徳社 1944(昭和19)年)所収「校庭(十首)」の第七首。「四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて」の題があります。
1943(昭和18)年、63歳のとき、旅先で風邪をこじらせ病床に伏していた會津が久しぶりに大学に復帰した際に詠んだもので、かつて学校構内でともに学び語り合った友の消息に想いをはせる懐かしさと寂しさがにじむ歌です。
早稲田大学高等学院は、1920(大正9)年の設置から上石神井に移転する1956(昭和31)年までの37年間、戸山町(現、文学学術院)にあり、會津が懐かしんだ戸山が原の情景には高等学院の校舎がありました。
【引用・参考文献】
・會津八一記念博物館『會津八一記念博物館開館20周年記念名品図録』 2019年3月25日
・大橋一章『會津八一<中公叢書>』中央公論新社 2015年1月25日
・吉池進『會津八一伝』會津八一先生伝刊行会 1963年
【協力】
・徳泉さち 東京学芸大学特任准教授