【思い出】「哲学者樫山院長が愛弟子掛下先生に厳命した結果…」11期 堤 哲
1959(昭34)卒 11期 堤 哲 F組 経済
哲学者樫山院長が愛弟子掛下先生に厳命した結果…
この写真は、1957(昭和32)年4月に、上石神井に移転した学院へ入学した1年H組の有志と、クラス担任でフランス語を教えてくれた掛下栄一郎・千栄子さんご夫妻である。
前列、掛下先生の右へ、「学者」と呼ばれたクラス委員鈴木昭男(2005年没)、入谷盛忠(三菱信託銀行=現三菱UFJ信託銀行)。その後ろ今沢章信(富士銀行=現みずほ銀行)、左へ小島征男(明治製菓)、浜野喜和二(大林組)、石崎衛(2012年没)、福田治郎(電通)、そして小生(堤哲=毎日新聞)である。20年前の2003年4月22日、掛下先生の最寄り小田急新百合ヶ丘駅近くの中華料理店で会食した。掛下先生79歳、われわれ生徒は61歳である。
どうしてこんなクラス会が開かれたのか。全員にメールしてみた。
「きっかけが何であったかは覚えていませんが、1年H組の面々での飲み会で、掛下先生とお会いしたいとの話が出たのではないでしょうか。先生の退職は1994年ですから、退職記念ではなく、私が持っている本『一哲学遊子の記』(2002年10月15日初版)の出版記念だったのかもしれません。先生の自伝風エッセイで、半生や、なぜ哲学の道を選んだのか……が記されています。先生は腰痛のため歩行がやや困難になり、その時も杖を2本ついて、奥様同伴で来ていただきました」 (入谷盛忠)
「先生は学院時代、テニス部の部長でしたが、同時にクラシックの解説者でLPのレコードの解説を書いておられたのを覚えています」 (今沢章信=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(エンパク)のボランティア解説員)
「会合に出席したことは覚えていますが、何の会合だったのかは記
「小生は1年J組。掛下先生に教わってません。今沢君に誘われて」 (小島征男=野球部)
1H、2K、3Fと3年間一緒だった浜野喜和二からは電話が掛かってきた。
「パソコンを久しぶりに開けた。返事が遅れてスマン。掛下先生には、オレが連絡した。先生の奥さまは、学院同期、といってもドイツ語だが、松村俊二のお姉さん。松村とは古川栄一ゼミ(経営学)で一緒、電話番号を教えてもらった。この会合の言い出しっぺはオマエだよ、確か」
掛下先生は、旧制和歌山中学(現和歌山県立桐蔭高)→1942(昭和17)年早大第二高等学院文科。中学時代はテニスの選手。5年生の時、関西の中学テニス選手32人が甲子園で合宿練習をした「関西中学鍛錬会記」(ローンテニス1940年10月号)に名前がある。学院同級生に「男はつらいよ」寅さんシリーズを手掛けた映画プロデューサー島津清ら。1943年学徒動員で大阪の高射砲部隊に入隊、翌年旧満洲(中国東北部)で幹部候補生の訓練を受けた。1945年1月日本に戻り、大阪・敦賀・京都の高射砲陣地を転々、敗戦。1946(昭和21)年文学部哲学科に復学。卒業後、51年まで大学院で樫山欽四郎教授の指導を受けた。そして1949(昭和24)年4月、新制高等学院発足と同時に、樫山教授に請われて助手となった。以来1966(昭和41)年まで教諭として在籍した。
樫山先生は、新制学院発足時の学生主任。1954(昭和29)年院長選挙で当選し、竹野長治院長のあとの2代目学院長に就任した。戸山町から上石神井への引っ越しも陣頭指揮した。NHK連続テレビ小説『おはなはん』(1966年)主演女優の樫山文枝は、その娘さん。
掛下先生はその後、1966年4月社会科学部の創設に伴って助教授(哲学・倫理学)→1970年教授→1980年9月社会科学部長。1982年理事(文化事業担当)→1986年常任理事(学生就職担当)→1994年3月定年退職、名誉教授。その間、1971年商議員、1976年評議員。在外研究員としてフランスに2度出張している。著書に『美学要説』(前野書店1977年刊)『人間の哲学』(前野書店1979年刊)『神の狂気の美を求めて ヒエロニムス・ボッスの旅』(成文堂1992年刊)『美と実在 フランスの叡智』(早稲田大学出版部1993年刊)。翻訳書に、アンリ・ベルクソン、ガストン・パシュラール、ガブリエル・マルセルがある。
前置きが長くなった。肝心の当日の話である。
掛下先生は「君たちの学年には忘れられない思い出があります」といって、入試の話を始めた。
「君たちが学院を受験した年は、樫山院長からいわれて私が入試の責任者でした。合格者を発表したところ、辞退者続出で定員を100人も割ってしまった。樫山院長に報告すると、と、『入学金の予算割れは許されない。何としても定員を確保するよう』厳命された。それで補欠合格の通知を出したのですが、今度は辞退者があまり出ずに、定員を大幅に超過してしまったのです」
そうか、オレもその恩恵に与った1人だったのだ。都立高校の入学手続きをしているときに「補欠合格」の郵便がきて、大喜びで上石神井へ飛んで行ったことを思い出した。1年はK組まで11クラスあった。この原稿を書くために調べたら『早稲田大学百年史』別巻Ⅱに、この事件!?が詳述されていた。定員割れの原因は「上石神井に移転したこと以外には考えられなかった」としている。われわれが2年になった時の学院生は、1年487人、2年616人、3年512人計1615人とある。定員より100人以上も多いのだ。突出している。
フランス語は、ロシア語履修の10数人と合わせ3クラスだった。ほぼ全員が顔見知りだ。11期生の仲間たちが、本郷東大赤門近くの二木旅館(同期二木正浩の実家)で新年会を開くようになった。第1回は1985(昭和60)年。11人が集まった。フランス語が達者なダボさん村井圭史(2000年没60歳)が幹事となって、毎年1月の第2土曜日に定例開催することを決めた。参加者は年々増え、50人にのぼることもあった。最近はコロナで中断しているが、次回第36回は、2024年正月に開けるか。
30年前の記念写真があった。前列左端がムッシュ村井。写真の裏にフランス語で10周年、1993年1月9日(土)本郷二木旅館で、とプリントしてある。旅館のオヤジ二木は前列左から3人目、村井の1人置いて隣りだ。真ん中の女性は、フェンシング部伊藤英司夫人。右端でVサインが、この写真を撮影した海野尚久。三脚を立て、オートで。元報知新聞カメラマン。大相撲のテレビ中継に砂かぶりでカメラを構えている姿がよく映った。
前記『早稲田大学百年史』別巻Ⅱに、われわれが3年生だった59(昭和34)年度のスポーツ選手の活躍を掲載しているが、いずれもこの新年会参加者なのだ。
競走部・林茂樹 (ロシア語)はインターハイ槍投2位、砲丸投3位。第14回国体(東京)槍投71㍍32の大会新記録で優勝。こ の記録は日本歴代3位。グランドホッケー部・寺本崇・二木正浩 (フランス語)は7回目の国体出場。ボート部・村沢嵩 (フランス語)は3年連続7回目の国体出場「2年と3年、2年連続でした」。フェンシング部・植竹清 (フランス語)は都大会3勝無敗で国体出場。
学部へ進んでも「文武両道」を貫いた仲間が少なくない。
航空部・大沼明夫 (ロシア語)は直線54・5㎞の飛行に成功。「学生2人目の銀C賞」(獲得高度1千m・滞空5時間・距離50㎞)と朝日新聞が顔写真付きで報じた (1964年2月29日)。水泳部・松本高明 (フランス語)は水球の五輪強化選手となり「毎日牛乳が支給された」。軟式庭球部・柳孝一(フランス語)とバスケットボール部・花堂靖仁 (フランス語)は早稲田大学大学院アジア太平洋研究科の元教授。元NHKアナウンサー島村俊治 (ロシア語)は、鈴木大地 (1988ソウル)、岩崎恭子 (1992バルセロナ)、清水宏保 (1998長野冬 季)の五輪金メダルを実況した。
洋画家難波田史男 (フランス語)は32歳で夭折したが「元気で弁護士を続けている」というのは大田黒昔生(フランス語)だ。
最近はドイツ語も誘っている。学院同窓会の元理事長森邦彦 (柔道部)も参加するようになった。コロナ禍で中止になった会
にはTDK元社長で日経新聞に「私の履歴書」を連載した沢部肇 (軟式庭球部)にも案内を出した。
掛下先生は、2011年8月6日に亡くなった。87歳だった。ご冥福をお祈りする。恩師2人・樫山欽四郎夫妻と松浪信三郎さんの写真を掛下先生が退職記念で発刊した『都の西北半世紀』(1994年2月刊)から。
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最後に個人的なお願い。「早稲田スポーツ新聞」は2019年11月に創刊60周年を迎えた。私はその第3代編集長で、『早慶戦全記録』(啓文社書房刊)を出版した。
「三田評論」2020年2月号に三田体育会副会長對馬好一さんが好意的な書評を寄せてくれた。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202002-1.html
ことし、1903(明治36)年に早慶戦が始まって120年——。以下にご連絡いただければ、お送りします。郵送料だけをご負担(@180円)下さい。よろしくお願い致します。
堤 哲
tsukiisland@gmail.com
080・3284・1568