【今思うこと】「僕が在る理由」22期 柳谷 晃 (数学科教諭)

1971(昭46)卒 22期 柳谷 晃 E組 理学
(数学科教諭)

「僕が在る理由」

 教師になるつもりはありませんでした。私の先生は、理系で最後に戦争にとられた世代の人です。紀伊半島で人間魚雷回天を海岸から発射するための穴を掘っていたそうです。本土決戦のためにこんなあきれた事をしていたわけです。海岸から回天を発射しても艦砲射撃をする戦艦にまでは届きません。さらに、充分に深いところを動けませんから上から丸見えでしょう。こんな経験をした方なので、兎に角、生活をして行くことを優先する方です。私があまり就職に興味を示さないので、心配していただいたのだと思います。高等学院に就職して、仕事をしながらゆっくり数学の研究をすれば良いですよ。とおっしゃいました。兎に角そこにいなさい。

 之が、私が高等学院にいた理由。教師になって数学を教えたいと思っていたわけでもないし、教師になると言う理想があったわけでもない。数学が好きなだけ。

 元々、自分の専門も持っていない、自分の専門の論文も書いたこともない。本だけ読んで、こんな教え方をしたら分かり易いかな、なんて考えている事で、良い授業をしている。なんて自己満足をしている連中は見たくもない。難しいことは易しくならない。好感度が下がったかな?

 長く高等学院にいるつもりはなかったです。それがいつの間にか40年超え。何か良いこともあったのかしら。ありましたね。

  高等学院のことではないですが。政治経済学部に戻ってきた数学科の先輩がいました。その人が、自分は早稲田大学エクステンションセンターの授業は向いてない、柳谷さん授業持たない?と、エクステンションセンターに紹介してくれました。最初は数学の証券取引への応用とかの話をしていました。あまり受講生さんは集まりません。内容を変えて、数学の分野が出来た時に、どんなことが起こっていたか。そんな話をすると、だんだん受講生が集まり、30人の定員を超えるので、定員を増やす事になったりしました。たとえば、微分積分学の誕生とルネサンスの哲学者のお話とかをすると、興味を持たれる方が多かった。日本史でも、いつ頃中国から暦が入ったかのような話も興味を持つ方が多かったですね。

 ある日受講生の方が、孫に自慢するからサインを下さい。と、私の著書をお持ちになりました。ありがとうございます。と、喜んでサインをさせていただきました。それで、少しお話をしました。その方は、私は全身に癌が転移しているんです。あと3ヶ月です。とお医者さんに言われました。でもね、先生の授業が楽しいので、聞こうと思っていたら、もう6ヶ月生きてます。と、お話していました。私のせいではないですよ、と申し上げたら、後ろにいた別の受講生の方が、いえ先生それは本当にありますよ。と、お話されました。余命3ヶ月と言われた方は、少なくともその後3年くらいは授業をお聞きにいらしてました。後ろにいらした方は、まだたまに、早稲田大学エクステンションセンターの校舎の周りや駅でお見かけする事があります。

 この時は講義をするのは大切だな、何処で誰のためになるかわからない。身体が動かなくなるまで通いますよ。と言われた方もいらっしゃいました。受講生の方が自分で調査されて、それを纏めて教えてくれました。之で授業が出来ますか。勿論出来ます。その方の調査を基に授業をしました。数学をやっていたことが思わぬ事に役立ったようです。勉強は自分の思っていた事だけに役に立つ訳ではない。

 こんな事を書いていたら、浅見淵先生と図書室の伊藤助松先生の事を思い出しました。浅見淵先生は文学史の辞書に必ず載っています。ご自分で小説も書かれていました。編集者としても優れた方です。真砂書房で太宰治の担当編集者をされた事もあります。石原慎太郎の本も担当しています。東京新聞の夕刊に毎金曜日、中間小説時評だったと思いますが、連載していました。毎週この記事を書くために、どれだけのものを読むのだろうと、驚きました。

 残念なことに、直接私は浅見淵先生と伊藤助松先生には習っていません。自分は書道を選択したので。文芸を選択するとこのお二人に習えた可能性があります。ちょっと残念ですね。山梨県立文学館が太宰治の展示をしていたときに、浅見淵先生宛の手紙が展示してありました。東京に帰って、慌て太宰治全集の手紙を集めた卷だけ買いました。確かに何通か、浅見淵先生宛の手紙が含まれていました。私は小説を読みません。作り物は見る必要がないでしょう。大事なのは現実の現象です。手紙の中には、太宰治が芥川賞を取りたいのですと、浅見淵先生に訴える内容の手紙とかが含まれています。

 浅見淵先生は背の高い方だったと思い出しました。青森県の太宰治の家に、記念日の写真が何枚か展示してあります。すぐに浅見淵先生だとわかります。凄い存在感。背の高さだけではないようです。

 私の名字柳谷は弘前の名前です。小説全体に興味がないのに、なぜ太宰治記念館には行こうと思ったのか。行こうと思ったのではなく、友人が連れて行ってくれただけです。ただ、浅見淵先生の話は友人も喜んでくれました。何でも勉強しておくと予想外のところで役に立つ事があります。

 落語に「淀五郎」という話があります。沢村淀五郎という江戸時代の役者が主人公。この淀五郎が中村仲蔵に諭されるシーンがあります。師匠の浅野内匠頭切腹の芝居を見たことがあるかい。ない、それはいけないねぇ。自分がそんなことはしないと思っても、人に教える事も出来る。仲蔵さんの言う通りですね、自分も高校の時に数学の本より遙かに多く歴史や経済の本を読んでいました。その知識で、今まで本を書けました。小説は読みませんが。今必要がなくても、いつ役に立つかわからない。教える事も研究も氷山の下が大切でしょう。私には早稲田が良かった。だめなのもいましたが、大事な人に会えました。