【今思うこと】「学院時代の思い出と最近のこと」 21期 瀧澤武信

1970(昭45)年卒 21期 瀧澤武信 G組 理工・数学

学院時代の思い出と最近のこと

写真1 2015年のクラス会 (C)1970年卒学院G組幹事会

 

 私は1951年生まれで2023年には72歳になります。学院には1967年に入学、1970年に卒業、ドイツ語クラス(G組)に在籍しました。担任は世界史の新井慎一先生です。クラブは物理の三觜秀郎先生が指導されていた将棋部に所属していました。同級生にブラスバンドの部員YYさんがいて、誘われて数回演奏会に出場したことがあります(そのうち1回は都の大会でした。その練習のため、合宿にも参加しました)。先日YYさんが現在所属している金管合奏団の定期演奏会を聴きに出かけたところ、この原稿のご依頼を受け、拙文を寄稿することになりました(写真1は2015年のクラス会にて、(C)1970年卒学院G組幹事会)。

入学の頃

学院時代のことは断片的なことしか覚えていませんが、記憶していることを書いてみます。学院に入って自己紹介をする機会がありました。驚いたことがあります。いきなり、最初の生徒が、「私は1年目に留年して2年目の生徒です」と自己紹介したことです。初めて「留年」という言葉を聞き、「何のことだ?」と思いました。数クラスで小旅行をするイベントがあり、私たちのクラスは大洗海岸に行きました。宿が当時の大学野球部監督の石井藤吉郎氏のご実家が経営していたものだと思います。野球部の選手の写真が多数飾ってあったことを憶えています。3年生のときにドイツ語の授業でヤスパースの哲学書が教科書でした。伴一憲先生の解説があり、何とか理解できましたが、友人には非常によく理解する生徒がいて驚きました。芸術は音楽で矢野好弘先生がご担当でした。トランペットのYYさん、パーカッションのSYさんの他、現在プロとして活動しているMHさんが一緒でした。物理実験は、ファインマンの思想に基づいて物理の先生方が作成された教科書によってご指導を受けました。良く組み立てられていて、レポート作成は大変でしたが実験結果の考察は楽しかったです。この物理実験の他に憶えているのは、中村茂先生の体育で「踏切板を使って跳び箱の上で倒立して前方に降りる」運動を教わったことで、中学時代まで運動は大の苦手でしたので、とても自分にはできない、と思っていましたが「言われたとおりにやってみたらできた」ので、大変驚きました。杉山信先生(だったと思います)のラグビーではYYさんが脳震盪を起こし、これにも驚きました。

クラス内では休み時間に校庭でソフトボールや卓球をしていました。サッカーをしている友人もいました。それぞれの競技で大変上手な生徒がいましたが、それなりに仲間に入れてもらいました。

学院生活

3年時の修学旅行で九州に行きました。乗り物に乗っている時間が殆どだったという記憶がありますが、卒業時にいただいたアルバムを見ると楽しかったようです。多少記憶が曖昧ですが、往きの列車(電車)が当時よく行われていた「順法スト」に巻き込まれ九州に入ってから遅れてしまいました。クラスの何名かが新聞の取材を受けていました。

3年時に理工系に進む生徒に対して、解析学入門の特別講義がありました。はじめて「大学の数学」に触れました。また、山下元先生から「コンピュータプログラミング」の基礎を学びました。大学に入ってからもTAとしてお手伝いしましたが、これが、その後の学生生活・教員生活の基礎となっています。

クラスでは生徒活動に取り組むメンバーも多く、活発に活動していました。2年生の時の選挙では、選挙管理委員長と生徒会4役をクラスのメンバー(一部、元メンバー)で占めるということが起き、大変驚きました。その頃、学生服の着用を自由化する、という運動が起き、生徒会が学院当局と交渉し、自由化される、ということも起こりました。私は直接見ていませんが、セーラ―服、スカートで登校した生徒もいたとのことです。それが正装の国もありますが、日本ではあまり見かけないので「賭けに負けた」から、という噂でした。

現在では「してはいけないこと」をしたことがあります。ある日、体調が悪く熱が出てとてもではないが朝から電車に乗って通学できる状態ではない日がありました。「休みます」と連絡しましたが、その日には数名で何か発表をすることになっていたので、途中から出かけて、教室で発表して、すぐ早退して帰ってきたことがあります。発表する仲間からは喜ばれましたが、今考えると、熱が出た状態で電車で出かけるなど、大変申し訳なかったと思います。

そもそも何故学院に入ったかというと、私が小学生、中学生の頃、父・瀧澤武雄が学院の教員(日本史)をしていたからで、小学生の頃、1度だけ学院祭に連れて行ってもらった時、鉄道模型のクラブの展示を見て「凄いな、楽しそう」と思ったのがきっかけでした。父も旧制の学院卒業です。

卒業後

卒業後は理工学部・理工学研究科で数学(はじめ、代数幾何、のち、計算数学)を学び、1978年に他大学でコンピュータ関係の教員として勤め、その頃から学院の3年生の時にプログラミングを教えていただいたときから「出来るといいな」と思っていた「コンピュータ将棋」の開発にも取り組みました。早稲田大学に政治経済学部の教員として勤めたのは1985年からです(その前に、修士学生の時、学院の非常勤講師を半年、1984年から政治経済学部の非常勤講師を1年)。早稲田大学の教員としては政治経済学部(現在は政治経済学術院)で「数学」の教員として経済学で使われる基礎的な部分を担当し、他に教育学研究科でも「数学教育」などを担当しました。大勢の教職員と共にグローバルエデュケーションセンターという長ったらしい名前の組織を立ち上げ、初代所長をつとめました。早稲田大学数学教育学会には山下先生、学院の小久江満先生、本庄昭三先生、喜多見孟先生、山口道成先生、前島仁先生、岩田利男先生、山岡幹雄先生らとともに立ち上げから関わり、2011年から2019年までは会長をしていました。現在の会長は高等学院長の武沢護先生です。

写真2 大山康晴賞(日本将棋連盟より

コンピュータ将棋 

 コンピュータ将棋は1974年11月頃から開発をはじめました。ミニマックス原理とαβ法に基づくものですが、とても弱いものしか出来ませんでした。しかし、仲間が増え、1986年に東京農工大学の小谷善行先生と共に「コンピュータ将棋協会」(CSA)を立ち上げ、1990年に「世界コンピュータ将棋選手権」を開催してからは参加者が増え、当時最強のプログラムが1995年頃初段に到達しました。そこからは、さらに参加者が増え、様々なアルゴリズムが考案され、現在では、プロ棋士よりかなり強くなるまでに至りました。詳しくは、「人間に勝つコンピュータ将棋の作り方」(共立出版、2012年)にあります。これに関連して2021年に日本将棋連盟から大山康晴賞をいただき、大変驚きました。大山先生は「コンピュータに将棋を指させてはいけない。人間が負けるに決まっているから」と仰っていたからです。写真2はその表彰状です。

 代表的なプログラムを少し紹介しますと、初期の頃では「森田将棋」「柿木将棋」「永世名人」「金沢将棋(極)」、その後、「YSS」「IS将棋」「shotest」(イギリス)、「激指」「KCC将棋」(北朝鮮)、「bonanza」「GPS将棋」「ボンクラーズ」「ponanza」「elmo」「Hefeweizen」「やねうら王」「水匠」「dlshogi」「技巧」「PAL」「AWAKE」(「AWAKE」は吉沢亮氏主演で2020年に映画化され、私も技術面で協力しました)があります。 

 2022年に行われた「第32回世界コンピュータ将棋選手権」には51チームが参加し、deep learningという手法を使っている「dlshogi with HEROZ」(「PAL」のメンバーも加わっています)が優勝、「Hefeweizen」のメンバーも加わっている「二番絞り」が準優勝しました。ご存知の名前があれば、「通」ですね。

写真3 清水市代女流王将対「あから2010」の対局風景 (C)情報処理学会

 私は、2000年に小谷先生から引き継いで、CSAの会長をしてきましたが、2021年度末で大学を定年退職するのを機に、会長も東京大学の松原仁先生に引き継いでいただき、現在は小谷先生と共にCSAの副会長です。

  写真3は、2020年に東京大学で行われた清水市代女流王将とコンピュータ将棋システム『あから2010』の対局風景。『あから』は仏教の経典にある巨大数10の224乗のことで、将棋の駒を並べた状態から、勝敗が決まるまでの局面の概数と近い数。

(先生方はお名前をフルネームで記述しましたが、友人は許可を取っていないのでイニシャルで記述しました)