【思い出】「つのる学院への郷愁」31期 村田洋一 (スイス在住)

1980(昭和55)卒 31期 村田洋一 K組 経済

「つのる学院への郷愁 」

レマン湖のジェッドー(大噴水)とジュネーブの州旗

 1976年に学院に入学した私は、高校3年の秋から一年間、米国シカゴ郊外の高校に留学した。帰国後に学院に戻ると、一つ下の学年に編入、1980年に学院を卒業し大学に進学した。大学卒業後は銀行に就職、国内、海外と転勤を繰り返した後、勤続20年を機に退職。現在はスイスのジュネーブでプライベートバンクの仕事をしている。

 『都の西北』はるか一万キロのスイスに移住して20年余りになる。当地では大学の稲門会の活動を通して、食事会や三田会との交流なども盛んで、集まれば必ず校歌を歌う機会もあり、母校への郷愁の思いがつのる。しかしながら、私にとっては、学生時代のうち、学院で過ごした時間が一番の心の拠り所だ。私は1980年に学院を卒業しているが、高校3年生の夏から一年間の休学をしてシカゴの高校に通っていたので、1979年に卒業した30期生との思い出がより深い。

 学院では弓道部に在籍した。横浜の自宅から片道2時間弱、弓を抱えて通学をしていたのはいい思い出だ。自由な校風で私服OKであっても部活の日など、制服を着ていることも多かった。卒業アルバムも制服姿で写っている。

 学院に入学してからは修学旅行なく、1年生、2年生の時にそれぞれ一泊二日の旅行に行ったのみだった。3年時にはついにこの小旅行も中止となった。今となってみれば、これも集団行動よりも自主性を重んじた校風ゆえで、それはとてもありがたくもあった。

 社会人になってからは、高校も大学も同窓会の活動には参加せず、しばらくは早稲田との縁も薄れていた。そんなある日、今から10年くらい前に、SNSがきっかけで友達と再び繋がりが生まれ、さらにK組の同窓会に誘ってもらったのがきっかけで、それから例年秋の同窓会に帰国日程を調整して参加するようになった。離れているからこそ、会って飲んで語る時間は何よりも貴重で大切な時間だ。学院の時にはほとんど話したこともないクラスメートとも交流が深められるのは、思春期の共通体験があればこそだと思う。

 秋の同窓会に参加するうちに、学院の時の思い出のひとつが話題になった。2年生か3年生の時、当時は唯一の女性、しかも大学院卒業して間もない、金井公世さんに物理の先生として一年間お世話になった。ところが授業は聞いていないどころか、最前列で堂々とトランプに興じていた。先生の注意など完全に無視した無法地帯だった。それから40年の時を経て、何としても金井先生と連絡をつけて、同窓会にお誘いしたいと考えた。ところが覚えているのは旧姓と大凡の年齢のみ。ネットでの検索を試みたものの情報は得られず。わずかな手がかりを持って学院を訪ね、同窓会事務所を通して先生に連絡をとろうと試みた。すでに退職されていることや、プライバシーなど、この人探しは難航したが、学院同窓会事務局にお骨折りをいただき、ほどなく先生から直接メールをいただいた。

 そして、今から6年前についに先生との再会、そして同窓会へご出席いただいた。先生は学院から本庄高等学院へ移られて教鞭を取られたあと、数年前にリタイヤされたとのことだった。「トランプ事件」のことは記憶されていて、私たちは当時の非礼を詫び、先生は我々それぞれの社会人としての活躍にとても関心を持たれていただいた。

 コロナの影響で、K組同窓会も開かれていなかったが、ようやくこの秋、4年ぶりに開催されることになっている。学院の仲間との久しぶりの再会でまた日常がひとつ戻ってくるのが楽しみだ。