【恩師のいま】 「音楽の矢野です」 早稲田大学高等学院元音楽教諭 矢野好弘

早稲田大学高等学院音楽教諭 矢野好弘

「音楽の矢野です」

 

 こんにちは、矢野です。1959年から早稲田大学高等学院で、音楽の教師、クラス担任、部活動の部長などを務め、2004年に退任しました。在籍中は、学院長、教員のみなさん、そして多くの生徒たちと大変良い時間を過ごすことができました。皆さんにお礼を申し上げると共に、私の昔話を聞いていただきたく、今回執筆させていただくことにしました。どうかお付き合いください。

 

矢野先生近影

少年期の暗い時代

 私は1933年、長野県飯田市に生まれました。満州事変に端を発して日本が国際連盟を脱退した年であり、やがて第二次世界大戦に突入していく暗い時代に少年期を送ったことになります。このような期間、音楽などを悠長にできる環境はありませんでした。でも、やがて終戦を迎え、中学生になったあたりからやっとピアノを弾くことができるようになりました。勤勉でまじめな家族を尻目に、私は音楽の世界に取り憑かれ、やがて学院の音楽教師になります。

 

スキー部の部長に就任

 私が長野県出身ということで、子供の時からスキーに慣れ親しんでいるだろうとお考えの方もいるかもしれませんが、飯田市は長野県の中でも温暖な地域です。少年時代にスキーをしたことはまったくありませんでした。

 

 学院の教師になってしばらく経った時ですが、当時学院長だった樫山欽四郎さんが、毎年開いているスキー・スクールに来ないかと声をかけてくれました。スキー・スクールとは学院の教員や生徒の有志によるスキーを楽しむ泊まりがけのツアーであり、初心者、経験者問わずに参加できるものでした。私はそこで初めてスキーを知りました。そして音楽と同様、スキーにも熱烈にのめり込んで行きました。それなりに上達したと感じた数年後、学院にスキー部を作り自ら部長になります。

 

 現在の学院長、本杉秀穂さんも実はこのスキー・スクールに初心者として参加しました。私も本杉さんにスキーを教えたひとりですが、センスが良くみるみる上達していったのを覚えています。

 

文部省のお金でヨーロッパ

 1971年のことです。当時文部省(現「文科省」)には、学校で働く教員に5ヶ月に渡り海外で研修を受けさせる制度がありました。自らが研修の計画書を文部省に提出して認められると、旅費・滞在費・諸経費を負担してもらえるというものです。ただし条件として、①5ヶ月経たないで帰国した場合、経費は全部自己負担となる、②海外滞在をしている証拠として海外から日本の所轄部署に定期的に手紙を書く、③帰国後は詳細な報告書を提出する、ことが必要でした。今より海外が遠くにあった時代です。海外生活に耐えられず帰国してしまう人が出るのを止める目的もあったということです。

 でも私としては、これに飛びつかない手はありませんでした。さっそく計画書を送付し承認されると、忘れもしない5月15日羽田空港から飛び立ちます。アンカレッジ経由で最初の滞在地はイギリスでした。英国女王の誕生日を年に一度公式に祝う大々的なパレードを見る機会を得ました。その後オーストリア・ウィーン、ドイツ・ミュンヘンなどへ移動し、それらを拠点としながら、欧州の各国(チェコスロバキア、ユーゴスラビア、イタリア、スイス、ギリシャ、スペイン、オランダ、など)を訪問し、美術・芸術を目の当たりにしました。スイス・ツェルマットでは愛するスキーもしました。

 そしてもちろん、各地で夏の音楽祭、オペラを堪能しました。カール・ベームが目の前で指揮した演奏は忘れえぬ思い出です。ただ通常席のコンサートチケットは高価であるため、最も経済的でありながら音質的にはさほど悪くない天井桟敷席をたびたび利用しました。当時の金額として400~500円程度で鑑賞できたと思います。このように、より多くの音楽を鑑賞する機会を得るようにしました。

 この滞在中には驚きの出会いもありました。ある日本人旅行者と話しているうち、その人が学院出身者だと分かったこと。突然「矢野先生!」と後ろから声をかけられ、学院の昔の教え子と偶然再会したことなどです。

 本当に素晴らしい5ヶ月間でした。でも帰国後待ち構えていたのは20ページにおよぶ最終報告書の作成でした。すごく疲れました。

 

授業で使った8mm動画

 ヨーロッパ研修には8mmカメラを持参しました。通常の静止画カメラも持っていったのですが、私にとっては8mmカメラでの動画撮影の方が主です。ここで撮ったものは、学院の音楽の授業でたびたび紹介しました。昔の教え子と再会すると、私の授業で覚えているのは、この上映のことだと言ってくれる人が大変多いようです。当時音楽の授業で、映像を通して欧州の雰囲気を伝え、その上で音楽を経験させる教師は珍しかったのでしょうか。

 今もこの8mm動画をテープで持っています。私の宝ではあるのですが、家族はそのように感じていません。どこか落ち着き先がないかと思っています。みなさん、ご希望の方はいませんか?

 学院での音楽の授業に話を戻しましょう。当時、生徒に作曲の宿題を出したことがあります。ほとんどの生徒は五線譜紙1~2枚程度で作品を提出してきたのですが、ある生徒は厚さにしてノート半分ほどのページ数での大作を提出してきました。何という生徒だろうと思いました。現在学院で音楽の教師をしている浅香満さんがその人です。厚くて熱い音楽への思いを、今も学院で語っているのだと思います。

 

幸せだった学院での教員生活

 私が学院にいた間、大変だなと感じたこともあります。修学旅行中に生徒が起こした不祥事に対応したこと。当時学院長だった人に一晩飲まされ説得され、とうとう根負けして渋々受けた仕事が予想通り肌に合わず非常に苦労したこと。学年末試験中に風疹が流行し、生徒たちが受験どころか登校さえできない状況に対処したこと。でもそれらを加味したとしても、学院での教員生活は本当に幸せでした。

 学院の生徒たちには驚かされることが多かったです。そのひとつの例としては、ピアノが驚くほど上手い生徒が「毎年各クラスに必ずひとりはいた」ということです。全国のコンクールで優勝できるレベルの力量を持った人も多く、音楽の授業で補助講師をしてくれたある女性の先生が「私はこのクラスの生徒の前で絶対ピアノを弾きません!!」と言っていたのが印象的です。

 

学院生だった頃の現院長

 ここで現在の学院長である本杉さんのエピソードをもうひとつ。本杉さんは28期卒業生で当時J組にいました。その時私が担任として受け持っていたG組と、どちらのクラスがより優秀かという話が持ち上がるほどどちらも成績の良いクラスでした。その優劣はさておき、J組は大変結束力のあるクラスでした。それをまとめていたのが本杉さんだと思います。本杉さんは一丸となったJ組に支えられ学院の生徒会会長にまで選ばれ、28期のみならず学院3学年全体をリードしました。

 現在の早稲田大学高等学院が、その本杉学院長を中心に今後益々発展していくことを嬉しく思い、またそれを心から応援したいと思います。

 私の話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

構成  友松 猛  (28期理事 G)