【追悼】故 矢野好弘先生を偲んで ~ 教え子一人からの思い出~ 19期 森 伸雄
1968年(昭和43年)卒19期 D組 森 伸雄
故 矢野好弘先生を偲んで ~ 教え子一人からの思い出~
矢野先生とは19期生Ⅾ組の担任として出会い、先生32才、我々16才、先生も若いですね。我々Ⅾ組クラスメイトも77才(喜寿)爺様になりました。

2024年6月開催クラス会

先生90才
私が先生と親しくさせて頂いたのは山を介してでした。矢野先生ご郷里の飯田市は南アルプスと中央アルプスに挟まれた美しい街で、先生は学生時代より山登りをしていたとのことです。私は中学時代に仲間と奥多摩の山々を歩いており、学院入学後Ⅾ組クラスメイト4・5人と共に3泊4日で北八ヶ岳を縦走しました。登山終了後に矢野先生から呼ばれ、登山初心者がために心配された父兄より連絡があったこと、多少経験のある私がリーダーとなることの忠告を受けました。それでも懲りずに秋にはテニス部の2人を誘い、南アルプスの甲斐駒ヶ岳・千丈岳の素晴らしい紅葉を満喫しました。次の年秋は穂高岳縦走に挑戦し、涸沢の紅葉を愛でながら北穂高岳から奥穂山荘に到着。一晩で大雪に見舞われ、我々慎重派は停滞を致しました。次の日も大雪でしたが、奥穂高岳から前穂高岳を縦走し岳沢を下り上高地へ戻ったことを矢野先生に報告したところ、強く注意され「君は素人だから冬山には行くな」と諭されました。しかし、私は誰もいない冬の富士山を知りますし、甲斐駒ヶ岳・千丈岳では吹雪のなか頂上に立ったこともあり、正月休みにはどこかの山へ潜り込んでいました。先生には内緒で「ごめんなさい」
矢野先生から大きく影響を受けたひとつは音楽です。高校時代にご自宅へお伺いしたとき、クラッシック音楽レコードを話されて私あまり興味がありませんと申し上げていました。けれどもいつの間にか新日本フィルハーモニ交響楽団の定期会員になり、ザルツブルク音楽祭まで出かけるクラッシック音楽大ファンを今日まで続けています。
私は10才の時父親が他界し、高校・大学時代から社会人を通して矢野先生に相談や愚痴を聞いていただきました。先生は強制的な指導を話されることはなく、「私はこう思うよ」とお気持ちを伺うことが、私に取りまして大変有り難いことです。ただ一度だけ強く指導を受けたことが有ります。母が家業に奮闘する姿を見、私は大学に進まず家業に携わるかと先生に相談したとき、このように指導を受けました。「森君、君は大学に進学出来る状況にある。俺にダマされてみろ。大学に進学して再度考えろ」と。私は大学で尊敬します指導教授から「学問とは」を学び、よき仲間との出会いがあり、大学の友人達とは50年以上も経ちながらも毎年3回の集まりで杯を酌み交わしています。先生から”ダマされて“の言葉は、図りしえない幸多き豊かな日々を送ることとなり、矢野先生には言い表しが出来ないほどの感謝をしております。
私は30才前に伴侶と出会い仲人をお願いに伺いましたが、先生からは仲人を受けない旨をお聞きし固辞されました。是非にと重ねてお願いしたところ、仲人とは一生付き合うものと話され、私は先生と一生親しくしていただきたい胸の思いを打ち明け、矢野先生は快く仲人を引き受けて下さいました。結婚後、先生と奥様から妻共々にお話をお聞きし楽しい時間を多く過ごせました。ご夫婦は大変仲が良く我々のお手本でしたから、奥様を先に召天された先生の深い悲しみは私達の胸を痛めたものです。
9月18日夕、ご家族から先生が緊急入院された連絡を受け病院に駆けつけたところ、お顔にはつやが有り、呼びかけに反応してくださり、少々安心しておりました。29日早朝に息を引き取られたご連絡受け、穏やかなお顔を拝見し、天国に召されて奥様とお会いしていると思います。戻りましたら、私の心に穴が開いた思いを強く抱きました。享年92才。
矢野先生の作曲された歌曲は私的なサロンや演奏会で数回聞いています。曲は優しく柔らかく豊かな旋律にあふれ、召天式で演奏された父上である矢野峰人先生の作詞「鐘 その一」は特に懐かしく思えます。矢野先生は奥様と天国で美しい旋律を浮かべていることでしょう。
10代の多感な時期から今に至る長きに奥様共々親しくご教示を頂き豊かな人生を歩みました。
矢野先生、心より感謝を申し上げます。有難うございました。



