【追悼】 矢野好弘先生 (音楽科元教諭)を送る 28期 浅香満 35期 榎本隆之

学院教諭(音楽科)28期 浅香満

学院教諭(国語科)35期 榎本隆之

訃報

矢野好弘(やの よしひろ)先生(音楽科元教諭)が2026年 9月29日 享年92歳にてご逝去されました。安らかな眠りをお祈り申し上げます。

矢野先生の召天式は10月2日に日本キリスト教団深沢教会にて行われました。高等学院教員・同窓会有志・室内合奏団関係者などが参列しました。

矢野先生は信州大学教育学部・東京芸術大学作曲科を経て、高等学院音楽科教諭として1959年から2003年まで音楽の授業を担当されるとともに、高等学院にスキー部と室内合奏団を創設して指導されました。

矢野先生と信州・スキー・白馬

【恩師のいま】 「音楽の矢野です」 早稲田大学高等学院元音楽教諭 矢野好弘 | 早稲田大学高等学院同窓会

矢野先生に関する記事が、過去の同窓会メールマガジンにありますので、こちらにリンクを貼っておきます。

現同窓会理事長友松猛氏によるインタビュー記事です。このインタビュー記事でも書かれているように、矢野先生は信州飯田の生まれで、よく信州の山々へ遊ぶことがありました。信州への郷愁は矢野先生にとって特別なものでした。先生がスキーを始めたのは、学院のスキースクール(シーズンスポーツ: 当時の自由参加の宿泊行事)がきっかけでしたが、それがスキー部の創設につながり、ひいては白馬でのスキー合宿につながりました。当時の白馬の常宿はゲレンデに直結した岳美山荘というところでしたが、この宿がスキー部のみならず、室内合奏団の夏合宿の場所としても使われるようになり、さらに夏の白馬八方尾根の探訪という新たな伝統も生まれました。スキー部が冬合宿を白馬で行う伝統は、以来今に至るまで続いています。

矢野好弘先生と室内合奏団

室内合奏団が創設されたのは昭和40(1965)年でした。当時は、ビートルズ全盛の時代で、高校生たちはみなロックに夢中になっていた時代でした。そんなある日、音楽科の矢野先生のところに、数人の生徒が集まってきて、こう言いました。「先生、ビートルズだけが音楽じゃないですよね」「弦楽器をやってみたいんですが、先生に顧問になっていただけませんか」……そして、校内放送で部員勧誘を呼びかけたのが、部活動としての室内合奏団の始まりでした。集まった部員はバイオリン弾きばかりでしたが、矢野先生自身がチェロ・コントラバスを担当して合奏を指導しました。ただし、生徒が毎年「演奏会を開きたい」と言っても、矢野先生は、「自己満足ではだめ、ひとさまに聴かせるようなレベルの音楽ではない」という理由で、創設以来20年間も対外的な演奏会を開くことを、頑として認めませんでした。矢野先生が初めて「これならなんとかいける」と首を縦に振って、演奏会を開くことを許したのは、創設から20年を経た昭和59(1984)年のことでした。この、「所詮高校生だからテキトーに……という甘えを排する」というマインドセットが、以後の室内合奏団の伝統となってきました。そこからさらに20年間、そして退職後も十数年間にわたり、矢野先生は指導者として、また共演者として代々の生徒と一緒に演奏し、ステージに立ちました。

召天式献奏

矢野先生を送るに際して、矢野先生自身の作曲した歌曲を2つ献奏して、お別れのしるしとしました。演奏を担当したのは、とくに矢野先生と縁のあった榎本隆之(Vn 高等学院国語科)・浅香満(Pf 高等学院音楽科)・菅純子(Sop 高等学院音楽科)です。

  • 矢野好弘歌曲集より 「鐘 その1」 (矢野峰人作詞) 
    • 「鐘 その1」は矢野好弘作曲の歌曲で、矢野先生の岳父矢野峰人作詞のものです。英文学者・詩人矢野峰人氏の感性の下で作曲家として活躍された矢野好弘先生へのオマージュとしました。
  • 矢野好弘歌曲集より 「谷の花」
    • 「谷の花」は矢野好弘作曲の歌曲で、浅香満編曲により演奏をソプラノ+ヴァイオリン+ピアノの版にしたものです。作曲家から作曲家へのトリビュートとして献上しました。

一方、室内合奏団現役部員は、式には参列しませんでしたが、学院内で黙祷を捧げ、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を演奏し、その録音を式のBGMとして使いました。矢野先生が学院に灯した音楽がこうしたかたちで生きていることの証として。こちらにその音源ファイルがあります。どうぞお聴きください。