【今思うこと】「学院の同世代の皆さんへ」 33期 唐津 敏徳

1986(昭和61〕年卒 33期  唐津 敏徳 B組 経済

 

「学院の同世代の皆さんへ」

               

 学院B組の親愛なる真ちゃんから2000字程の「徒然なる原稿」を依頼されました。「思い出でもエールでもなんでもいいんだよ。・・東京で生まれ働き住んでる人が多いので地方目線で書いてもらうと面白いかも」とのお題もいただいた。ふぅむ。確かにぼくはいま、小6の5月まで住んでいた福岡に住んでいる。真ちゃんは北九州出身で二人とも学院では珍しい地方出身者だ。もっとも真ちゃんは確か高校生から学院だったので入学の頃は九州弁丸出しだった。北九州は語尾に「ちゃ」を付けるので僕の生まれ育った博多よりは幾分ローカルな(東京からすれば博多も北九州も同じようなもんだろうけど)言葉だよな、と思っていた。真ちゃんは優等生でよく至らないクラスメートを「コバヤシ!、それはいかんちゃ!」と怒っていた笑 (コバヤシ君の名誉のために添えておくと、彼も立派な魅力的な大人になり、ご子息は佐賀の稲門へ進み、拠点も東京と福岡の両方に置かれている)。いや、ホント、今思い出せば、都会の絵具に染まっていない田舎もんの真ちゃんをクラスメートは温かく模範生徒として「クラス委員はそれは真ちゃんだろ」と受け入れていた。そして今は、学院同窓会の世話役を務めておられるご様子で、真ちゃんのピュアネスが約半世紀変わらないでいることに僕は神々しさまで感じています。

 文章を書くときふつうは想定する読み手がいるものだけど、この学院同窓会メルマガの想定する読者とは果たしてどの世代になるんだろう。今一つイメージがわかないので同世代から多少の後輩までを想定しますね。なので先輩方々が「唐津、なにを偉そうに」なんてどうぞ読まないでください。特にサッカー部の先輩には毎年2月の集まりにも参加していないので怒られそうで怖いっす。

 ということで同世代から後輩の世代あたりを想定して徒然なるままに書きます。学院後の40年程を振返り、ローカリズムについて考える。ひょっとしたらコロナ禍で人の集積した都心にはもう辟易だよなぁ、と思っている人もいるかも知れない。(いや、都会派の学院生にはそんな人いないか)

 ぼくは今年57歳なので学院を卒業して約40年。数年で還暦を迎える。長く生きてくると比較的長めの時間的射程でモノゴトを振り返ったりできるようになる。好きだった渡辺真知子が「唇よ熱く君を語れ」をヒットさせたのは1980年、この歌が使われた化粧品の宣伝文句は確か「レディーエイティ」というもので真知子(ファンなので呼び捨てにさせてもらいますよ)が「80年代はいよいよ女性が活躍する10年になると思う」なんてことをザ・ベストテンで言ってた(「唇よ熱く君を語れ」は残念ながら2位どまりで、1位になったのは竹内まりやの「不思議なビーチパイ」だった)。大瀧詠一の「A LONG VACATION」が大ヒットしたのは1981年。新島の白い砂浜で聞いたよなぁ。この頃は自分の未来と日本の経済的ブームが相克してこの先どうなっちゃうんだろう、という期待や不安がない交ぜになるふわふわした時代だった。で、テニスや飲み会や女の子とのデートと少し読書、少し勉強という典型的な学院の延長戦的大学生を終え、これも典型的な就職活動をやって(売り手市場と呼ばれる時代だった)、サラリーマンになるのがまあ幸せなんだろうと疑うこともせず(その点、今の学生の選択肢が増えた経済環境がやや羨ましかったりもします。サラリーマンが絶対じゃないぞ、と気づきだした)、1986年卒業に併せカイシャインになりましたね。駆け出しサラリーマンは遅くまで働いてそれから会社のセンパイと飲みに行くものなのか、こんな生活が今からずっと続くなんて、というややアンニュイな気分も味わったりして時代はバブルを迎え、90年代に入り壮大なバブルが弾ける(バブル崩壊は1991年3月から1993年10月までの景気後退期を指すらしいです)。バブル崩壊も振り返ってみるとああ、そうだったの、あの時弾けていたのね。マイホームでマンションを買ったのが1989年だったから正に高値で掴んでしまって、その後の資産デフレにどっぷり浸かってしまったのね、と回顧するわけです。そして、90年代はバブル崩壊後の「失われた10年」、2000年代に入っても不良債権問題やらでさらに10年が失われて、日本経済はなんと「失われた20年」と金融資本主義のつけを払わされてしまう。やれやれ(はい、村上春樹は好きです)。ぼくらはそんな時代を生きて来たのか。その間にせっせと子供を育て、カイシャに忠誠心を誓い(または誓うふりをし)、あっという間に役職定年を迎えてしまったのか(いや、これは僕個人の話でまだ役員として頑張っておられる方もいますのでね)。長い射程で見てみると、日本は戦争に負けて、効率的に戦後復興を遂げるために大戦略たる米国追随、産業護送船団方式、大企業主義等で多くが中流と感じられる国になって(そういう意味ではその時代の為政者としては合格点なのでしょう)、ぼくらの時代の学院生なんかはその余沢にどっぷり浸かって金融資本主義のトリクルダウンの恩恵に浴したくちだろう。多少の違いはあっても、概して気持ちのいい青年集団である学院生は(キミもそうだろ?)カイシャに入ってもまあ、あいつはいいやつだ、って調子よく生き抜いたやつが多いだろう。思い出したけど、売り手市場の就職活動で今は無き長期信用銀行のリクルーターに「学院出身の学生はなんでそんなにいいやつばかりいるんだろう?」と真面目な顔で聞かれたことがある。「いや、調子いいだけですよ」って本音では思ったけど、たしか気の利いた回答をしたような。

 ぼくらの生きてきた時代は日本経済のブームと崩壊の中にあって資本主義が絶えることのない欲望を駆り立てて「お金」というのが意識の中のわりに大きな部分を占めてしまうような時代でしたよねー。

2017年 くじゅう連山(大分県)

 さて、お陰様で子供二人も巣立っていったし(男の子二人は慶應にお世話になりました。早稲田への愛校心が足りない?ぼくにとっては早稲田と慶應は一つの記号として成り立つもの。慶應あっての早稲田だよな、って。ちなみに二人の男の子はサラリーマンにならなかった。サラリーマンはお父さんやったから違うことやったらいいよ、と言ってたかな)、そんな俗っぽい資本主義社会からちょっと片足抜けてみようじゃないか、なんて思える世代にもなった。

 通貨危機、リーマンショック、白川総裁から黒田総裁へ代わって異次元の金融緩和、未曾有の国債残高、等々お金にまみれた世の中。人間は古来、神や仏を拝んできたけど近代を経て自然科学主義が祈りの中心を神や仏から「お金」にすり替えちまった。おいおい、こんなんでいいの、って自問することも年齢のせいか増えてきた。

 そんなタイミングで大分県への単身赴任が決まった。赴任に際しては、せっかくの機会なのでローカルティや自然との触れ合いなんかを自分に取り入れたいなという思いで旅立った。それまでにも勤務地としては東京以外で大阪、札幌、神戸とそれぞれに素晴らしいローカルティを体験してきた。他県で生活した経験のある方は同感いただけると思うけど、東京以外の都市はどこもいいですよ。混雑もないし、適度な都会と手軽な田舎があって。東京圏はやや色々なモノが集積し過ぎましたよね。日本列島改造論の田中角栄もこんな筈じゃなかったんだ。国土の均衡的発展を意図したんだって嘆いていると思う。効率一辺倒で政官財がねぇ、こぞって東京へ資源を集中しちゃった。首都圏直下型の地震を待つまでもなく、今回の新型コロナ禍にしてもリスクをこれ程までに集積することはなかったんじゃないかね。首都圏に住んでおられる学院生が多い中、こんなこと書いて恐縮です。ただ、ぼくも浦和のマンションを売ってリスク分散という考えも一部はあって(子供たちが首都圏から逃げてくるところがあった方がいいな)、福岡に移転したとも言えます。

 大分では4年間充実した生活だった。地の人と触れ合い、自然に触れた。登山をはじめ大分百山を完登した。大分はくじゅう連山という1700m級の綺麗な山々が有名だけど600m程の未整備な山が沢山あって日本山岳会東九州支部が大分百山を定めている。この荒れた山々がワイルドで面白いんだ。2年前に福岡に移ってからは一人縦走がわりに気に入ってルートを研究して20㎞前後の縦走を楽しんでます(二度程、身の危険も感じたけど)。

2019年 糸島(福岡県)

 福岡市はウォーカブル・シティといわれていて博多駅から天神、大濠公園辺りまで徒歩圏内です。で、公共交通機関を使うと15分もすれば山へも行ける。いわば、適度な都会と適度な田舎で大変心地よいローカルティ。

 「選択と集中」の時代から「多様と分散」へと時代は向かうのではないかな。多様性の中に身を置いてこそ気づきも多い。学院生的なモノ( 都会的軽妙さ、機嫌のよさ、とぼくは思ってます)からみなさんもやや離れてはいると思うけど。少し思い出してココにはアンカーをそっと置きましょう。そしてこれからの人生を笑みを浮かべながら優しい気持ちで考えてみましょうよ。

 学院生としてのなんとなくクリスタル的(なつかしいですね)都会派としてアルゴリズムに身を任せる俗っぽさ半分、半分というのはズブズブな俗っぽさにもう一人の自分が懐疑しつつ、もう半分はもう少し長い射程で日本の山河の持続性なんかも考える大人の態度というか知性を働かせる努力をするというか、そんなバランスの生活を送りたいと思っている。これが僕のウェルビーイングかな。

みなさん、より良き人生を!