1980(昭和55)年卒 31期 安田真人 経済
(元ラグビー日本代表)
「学院ラグビー部での出会いと学び、そして今。」
日本代表時代の筆者
学院ラグビー部を選択した決断
1977年1月3日の国立競技場、全国大学ラグビー選手権大会決勝が行われる前に私はそのグランドに立っていた。前座の中学東西対抗戦という試合で、東軍のフォワードとして後半のみ出場した。20分間ボールを一度も触れることはなかった。メインイベントは早稲田が明治に圧勝して優勝した。そしてこの日私は学院を受験の第一志望に変えた。実は早稲田が優勝したからではない。東軍のほとんどのメンバーが慶応、彼らと戦いたいと思った。この決断がその後の人生の全てとなり、還暦になってもラグビーに関わる毎日となった。
二人の先生との出会い
左が伴先生 右が大西先生
ラグビーを始めてほぼ半世紀、仕事以外はほとんどラグビーに関わる人生となった。こんなに長く携わることになったのは、学院ラグビー部で二人の先生との出会ったことが大きい。一人は元早大教授、元ラグビー日本代表監督、元早大ラグビー部監督、そして長く学院ラグビー部を指導された大西鐵之祐先生、そしてもう一人は第11代学院長、元学院ラグビー部顧問の伴一憲先生である。
私が学院ラグビー部に入部した年、学院は花園に初出場する。私はその東京都予選決勝で初めて秩父宮ラグビー場でプレーをした。フォワードではなくフルバックというバックスである。背番号4から15へ、このコンバートは大西先生の発案だそうだが、本人から一度も理由など聞いたことはなく、ほとんど伴先生からの話である。伴先生はどちらかと言うと「話を盛る」方なので、果たして本当かどうかは私もわからない。ただ、このコンバートがなければ私は日本代表になることはなかった。戸惑う私をその気にさせたのは伴先生かもしれないと今では思うことがある。
その後卒業まで、大西先生のご指導、伴先生に顧問をしていただいた。大西先生には大学ラグビー部入部後もご指導いただき、2年生の時は監督となられ、大学選手権準優勝という経験をさせていただいた。そして大学を卒業した。ここまでは一人の部員と指導者、監督、そして顧問の先生という関わりだけであったが、その後このお二人ともう一度一緒になって一つの目標に向かっていくことになったことが、私の人生をさらにラグビーに引き寄せる結果となった。
学院ラグビー部監督時代の思い出
1回目の監督時代の「Cチーム」
卒業後私は横河電機(株)という会社に入り、仕事をしながらラグビーを続けていた。そろそろ現役引退という時に学院ラグビー部のあるOBから「学院ラグビー部の監督をやってくれないか」という話があった。お引き受けするにもまずはチームを見たいと思い、正月東伏見のグランドに練習を見に行った。そこで伴先生にお会いした。まだ顧問を続けられていた。先生からは「安田君、申し訳ない。今度の新チームはCチーム(三軍)なんだよ」と開口一番言われた。最初は何を言っているのかわからなかった。当時の学院ラグビー部は2年前に3回目の花園出場、学院史上最強チーム。その翌年も全国クラスのチーム、ただ残念ながら東京都予選準決勝で目黒高校に敗退したが、強力な3年生部員が多く、A、Bチーム30人がほぼ全員3年生。その結果、新チームとなる2年生以下は試合経験がほとんどないメンバーばかりの状態だった。まさに新チームは「Cチーム」だった。練習を見たら確かに下手くそだった。ただその分やりがいを感じたのは事実だった。その後新人戦が始まり、大西先生は毎試合観戦にいらっしゃっていた。そして試合の後は大西先生、指導陣と伴先生などを交えて食事をしながら反省会である。そこで初めて学生の時にはわからなかった指導における大西先生の考え、そして顧問としての伴先生の苦悩などを知ることとなった。私は監督と言っても会社勤めがあるので、練習に出るのは土日休日である。平日は学生コーチはいるが、基本的にはキャプテンが中心となって練習をしていた。練習内容は私が決めた内容をFAXで伴先生に送って生徒に渡してもらい、練習現場も見ていただいた。夏のある日、FWのキャプテンとBKの副キャプテンが大喧嘩をしたことがあり、伴先生の計らいで、その二人と4人で食事をして仲直りさせることもあった。大西先生は練習試合でも帯同いただき、時には生徒に講義もしていただいた。合宿では同じ宿舎で寝泊まりもしてくれた。時折大西先生の手書きメモが伴先生からFAXで送られてきた。チームの改善ポイントの指摘や練習内容についてコメントいただいた。なんとかこの「Cチーム」を全国大会に出場させたいという思いがその文字に現れていた。
そして、東京都予選準決勝で前年敗れた目黒高校とまた戦うこととなった。東京都関係者の誰もが目黒が圧勝すると思っていた。結果は学院の見事な逆転勝利であった。「早稲田マジック」として新聞にも報じられた。残念ながら決勝は敗れ花園出場は果たせなかったが、大西先生、伴先生の厳しく温かく、そしてきめ細やかな指導によって、彼らは大きな成長を果たすことができた。
その後私は監督を2年間継続したがこの戦績を越えられず退任、その年の9月に大西先生が亡くなられた。大西先生の学院生への愛情を直接現場で見ていた者としては、少しでもそれを伝えることが自分の役目ではないかと感じるようになり、その後も現場に出向いて学院生の指導を続けた。また伴先生は顧問から学院長になっても、また学院を退職された後も、年に数回電話やメールでメッセージをいただき、必ず最後に「学院ラグビー部をよろしく」で締めくくられた。自分の経験が少しでも活かせるのであればと考え、継続して学院ラグビー部と接してきた。
その伴先生が今年4月に亡くなられた。「Cチーム」のメンバーにもその訃報を知らせ、驚きと思い出を語る中、伴先生からの手紙を思い出すものもいた。東京都予選決勝敗退後、この年は年末関西遠征(洛北高校、同志社香里高校との定期戦)があり、最後定期戦に勝利して1年を終えた3年生は、全員伴先生から手紙を受け取った。彼らのその後の人生において大きな影響を与えるメッセージとなっていたようである。
(伴先生学院ご退任 : 早大学院ROB会報より)
(伴先生と学院ラグビー部 写真集)
人財育成、文武両道、ナショナルリーダー
大西先生と伴先生、このお二人の学院ラグビー部への指導の根源は、人財育成、文武両道、ナショナルリーダーを育てるということにある。その情熱と思いは今の学院生にも伝えたいものであるが、この話は長くなるので、伴先生も協力された大西先生の著書「闘争の倫理」を読んでいただければと思う。
私もまだまだこれからが挑戦だと思っている。少しでもお二人の思いを遂げられるよう精進していきたいと思う。最後になりましたが、今回このような寄稿の機会をいただいた学院同窓会理事の方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。