【恩師】「浅見淵先生のこと」16期 増田久雄
1965(昭40)年卒 16期 増田久雄E組 E組 経済
浅見淵先生のこと
周辺にはまだ田園風景が広がっていた。
国内では所得倍増計画を掲げた内閣が発足し、大洋を隔てた米国には43歳の大統領が誕生…世界が大きく変貌しようとしている時代だった。
西武線上石神井駅から北に向かい、左右に広がる農作地を横目に早足で10分、木造モルタル塗り2階建ての“我らが学舎”があった。A〜J組までの10クラス。ベビーブーマー世代の第一陣だった私たちは一組52人の大所帯だった。
新入一年生には、音楽、美術、文芸、書道の選択科目があり、私が選択した文芸の担当が浅見淵先生だった。曜日は忘れたが、5時限、6時限の2時間続きのクラスで、最初の授業は4月初旬の陽春日で正門から校舎に続く桜並木は花びらが散り始めていた。
ポカポカ陽気のひだまりの中、昼食直後の満腹感も手伝い、窓際の席だった私は授業が始まり20分もすると居眠りをしてしまった。通路を隔てた隣席の生徒に右腕をこづかれ、目を覚ますと教壇の浅見先生が顔を紅潮させ、頑固親爺の形相で、私を指差していた。
「き、君ィ!」
既に高齢だった先生は、吃音者のように出だしの言葉を刻んだ。
――まずいことしたな。
私は思った。
「初めての授業で居眠りするとは何事だ!」
思った通りのことを浅見先生は指摘してきた。
「すみません」
素直に謝った。それしかない。
と、先生は、頑固親爺の厳しい表情を和らげ、好々爺の顔に変貌した。
「眠いか?」
「はい、陽だまりで心地よかったので」
「そうか。だったらこのクラスはいつも1時間しかやらない。だから1時間だけは起きていなさい」
その言葉通り、私たちの2時間授業は常に1時間となった。学院は授業始めと授業終わりにホームルームが無いので、その日は常に5時限目終了が学業終了だった。これは、旧友たちにかなり感謝された。
この一件がきっかけで浅見先生とは目に“見えない絆”(something great)のようなものが生まれた気がする。
当時『文学界』の同人雑誌評を担当していた浅見先生が、石原慎太郎の発見者と知ったのはそれから1ヶ月後で、そのことを尋ねると、先生は石原氏のことをやんちゃな教え子を語るように嬉しそうに話してくれた。こうして、先生が放棄した6時限目授業は私の個人授業になることも何度かあった。
2年生になると文芸のクラスはなくなり、一時疎遠となったが、先生とのご縁は大学入学後に大隈重信公銅像が見下ろす広場前の再会で復活した。
先生は、私の名前は忘れてはいたものの、「最初の授業で居眠りした生徒だな」とあの一件を覚えていてくださった。先生が講義を終えて大隈公銅像前を通り過ぎる頃を見計らい待機していた私が偶然を装って声をかける、という小賢しい方法で月イチ程度、立ち話を楽しんだ。時には、学生食堂に場所を移して、貴重な珈琲タイムを過ごすこともあった。
そして当時華々しくデビューした五木寛之の文壇登場にも浅見先生が大きな役割を担っていたことを知り、先生へのリスペクトの念はますます深くなった。
石原と五木――この2人は私の青春時代に大きな影響を与えた作家に他ならない。
2年間の一般教養課程を終えると、大学に休学届けを提出し現金500米ドルだけを携えて移民船『ぶらじる丸』で放浪の旅に出たのも、浅見先生との語らいが大きな追い風になっていたと思う。
1年後に帰国し、平凡なサラリーマンになるつもりだった私が、石原裕次郎さんとの出会いから映画業界に入り創作活動に携わるようになると、浅見先生と過ごした時間が思わぬところで支えになることがあった。更に、成り行き上から、脚本執筆、小説執筆をしたりするようになった時には、浅見先生の導きを感じることが多々あった。
「君ィ!」と怒った頑固親爺の形相、
「眠いか?」と一瞬で変わった好々爺の顔。
今でも、昨日のことのように懐かしく思い出す。
“トリスを飲んでハワイに行こう!”をキャッチコピーにした柳原良平描くアンクルトリスの親父顔のCMがテレビに流れ、日本人の海外旅行熱を煽っている、今正に日本経済のバブルが始まろうとする時代だった。
浅見淵(あさみ・ふかし)1899年6月24日 – 1973年3月28日)早稲田大学文学部国文科卒業。小説家、文芸評論家。横光利一、井伏鱒二、丹羽文雄、尾崎一雄らと文壇活動。文芸評論家としては、梅崎春生、石原慎太郎、三浦哲郎、五木寛之らの才能をいち早く見出し、彼らの文壇登場に大きな役割を果たした。
増田久雄(16期生)『あしたのジョー』『矢沢永吉RUN&RUN』『チ・ン・ピ・ラ』『ロックよ、静かに流れよ』『ラヂオの時間』等、五十本超の劇場用映画を製作。『太平洋の果実/石原裕次郎の下で』『団塊、再起動。』『デイドリーム・ビリーバー』『栄光へのノーサイド』など著作も多数。