【思い出】 「1964年東京オリンピックの思い出」 12期 浅沼肇
1961(S36)卒 12期 C組 浅沼肇 商
「1964年東京オリンピックの思い出」
オリンピック選手村でジャズ演奏
東京オリンピック開催の年になり、56年前、1964年の東京オリンピックに関わった学院生の一人として当時を懐かしく思い出している。 この前の東京オリンピックの時、早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラは、オリンピック選手村の中で演奏をした。
この年のIOCのブランデージ会長は、徹底したアマチュアリズムの人で、「スポーツ選手がスポーツで1銭でも金をもらったらオリンピックへの出場は不可」という厳しい人で、「オリンピック村の中での演奏もプロのミュージシャンは駄目,アマチュアのミュージシャンで」となり、当時、日本の学生音楽界を代表する早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラと慶応大学ライト・ミュージック・ソサエティが選手村で演奏することになった。
この時、9人の学院出身者がハイソのメンバーで選手村で演奏した。トランペットの宮原明、北川匡厚、由地信太朗、トロンボーンの笠原克信、中島正弘、テナーサックスの一宮弘文、ベースの吉福伸逸、パーカッションの伊佐早佑二、ギターでバンマスの浅沼肇の面々。選手村は広く、我々の移動は自転車だった。自転車は、自転車置き場が各所に有って誰でも自由に使えた。また、選手村の各所に大きな冷凍スボックスが設置されていて、森永、明治、等製菓会社各社がアイスクリームを提供して誰でも自由に食べられ、我々もご馳走になった。
ハイソが演奏したエンターテイメント・ホールは広く、ビッグバンドが演奏出来る大きなステージと、その前にダンスが出来るスペースが有り、ダンス・スペースを囲んで200席ぐらいの椅子席が有った。男子100メートルと400メートルリレーの2個の金メダルを獲ったボブ・ヘイズがカウボーイ・ハットをかぶって、椅子席の一番前で演奏を楽しんでいたのがステージの上からよく見えた。
ホールに付随して10人ぐらい入れる部屋が数室有り、各部屋に当時は超贅沢品だったカラーテレビが有り、競技を終えた選手達がそれぞれの競技を見ていた。私達は、この部屋で演奏の合間に、重量挙げの三宅義信が金メダルを獲った瞬間をアメリカの女子水泳チームの大歓声に囲まれて見ることが出来た。大感激だった。あれから56年経ったが、あのオリンピック選手村での経験はハイソ・メンバーだった我々学院生達の生涯忘れられない思い出となっている。このオリンピック選手村での演奏メンバーとほぼ同じメンバーで、大学の創立80周年記念を祝い、なんと!返還前の沖縄でも演奏した。
当時、沖縄は米軍占領下だったが、外国ではないからパスポートは発行されない。その代わりに総理大臣(池田勇人)発行の身分証明書で上陸した。
芸は身を助く
「芸は身を助く」で、後に駐在したスペインでもウイーンでも音楽に助けられた。右の写真はスペインのオーディオ雑誌でテクニクスが優秀機器賞を受賞した時のもの。
この頃、スペインのオーディオ界では、けっこう自分の名前は知られており、右隣のド派手な女性は、当時のスペインの人気歌手、ア・ラスカ嬢。
柔道チャンピオン ヘーシンクとのご縁
私が学院の柔道部に居た時はまだ体重別ではなく、体重65Kgの私が体重100Kg超の相手と試合したことも有った。
柔道が体重別になったのは1964年の東京オリンピックからだ。
それまでオリンピック競技ではなかった柔道を、オリンピック正式競技にするために、国際的に通用する体重別を東京オリンピックから採り入れた。その東京オリンピックで、日本柔道が無差別級(神永選手)でオランダのアントン・ヘーシングに敗れる、という正に柔道の国際化が現実となった。
それから20年以上経って、私が勤めていたパナソニックが、オランダの自転車チームのスポンサーになることになり、その際オランダと日本の橋渡しをしたのが、当時オランダ外務省の顧問だったアントン・ヘーシンクだった。アムステルダムで行われた提携式で、私は運良くヘーシングと昼食で同じテーブルになった。そこで、私が柔道をやっていたことを話すと
ヘーシングは喜んで、柔道の技とかオリンピックの決勝戦での相手、神永のこと等を「カミナガさ~ん、つよい」等と日本語をまじえて嬉しそうに話してくれた。彼は本当に「気は優しく、力持ち」だ。
その後の柔道の国際化は敢えて話すまでもない。
真ん中の巨人がアントン・ヘーシング、彼の右の若者が私。机上の機器は同時通訳機である。