【我が人生】 「『世界一の遊園地』をつくる“夢”を追った日々」 12期 奥山康夫
1961(昭和36)年卒 12期 奥山康夫 A組 商
「『世界一の遊園地』をつくる“夢”を追った日々」
面白い仕事がやりたかった
大学(第一商学部)4年の就職活動のときに、たまたま父の縁で当時オリエンタルランドの専務をしていた高橋政知さん(後に社長)を紹介されて、「面白い仕事がやりたいんだったら、俺のところに来るか」と誘われたのが、そもそも私が東京ディズニーランドに関わるきっかけでした。何をやるんですか? と聞いたら「浦安を埋め立てて、世界一の遊園地をつくるんだ」と言う。ああ、これは面白そうだと入社を決めました。昭和40年ですから、今からもう55年も前の話です。
それからオープンまで実に18年かかりました。今の人たちにとっては浦安にディズニーランドがあるのは当たり前のことですが、私が入った当時はようやく埋め立て工事が始まったばかりで、そこに何をつくるのかさえ決まっていない。遊園地や住宅、商業施設、ドーム球場やゴルフ場といった話が浮かんでは消えしていました。私自身、「世界一の遊園地」の話がいつまで経っても始まらないので、一時は会社を辞めようかと思ったほどです。
オリエンタルランドは京成電鉄と三井不動産の子会社で、千葉県から埋め立て地造成の委託を受けているという立場でした。ディズニーランド誘致は、当時、京成電鉄の社長だった川崎千春さんがずっと抱いていた夢だったのです。しかし、夢が実現するまでの道筋は生半可なものではありません。ディズニー側は当初は海外進出にまったく興味を示さず、会ってすらもらえない期間がしばらく続きます。交渉が始まってからも、開園までに破談の危機が3回はありましたから。
涙が出るほど感動した
やがて私は遊園地担当として、さまざまなプランを県と協議する役目になります。昭和46年の終わりごろには、複数のチームに分かれて海外視察に出かけることになった。私はアメリカへ行くグループで、ここで初めて本場のディズニーランドと出会います。正直、涙が出るほど感動しました。とにかく素晴らしい。当時、日本にも横浜と奈良のドリームランドや後楽園、宝塚ファミリーランド、富士急ハイランド、浅草花やしきといった遊園地がありましたが、もう大人と子どもほどの差があると感じました。
それまでの遊園地はスピードやスリルといった体感に訴えるものがほとんどです。ところがディズニーランドには映画の世界を現実に体験できるテーマがあります。それはロマン、冒険、未来といった人間があこがれるものばかり。そうしたテーマごとにアトラクション・ショップ・レストラン等が設計され、ゲスト(お客)を楽しませることを徹底している。非日常の空間という、まさに見たことのない世界を初めて見せられた思いです。これを日本に持ってきたらすごいことになるぞ、という予感で身震いがしたほどです。
しかし、いくらなんでもこれをそっくり持ってくるのは現実的には難しいだろうと、当時の私たちは考えていました。とりあえず、「カリブの海賊」と「ホーンテッドマンション」「スモールワールド」の3つを買って、それを核に周辺に独自のアトラクションを設けるという方向で考えていたのです。ところが、結果はご存じのようにアメリカのディズニーランドが丸ごとそっくり来てしまった。ディズニーのフィロソフィと一緒に。多くの評論家は、東京ディズニーランドは何年ももたないだろうと口を揃えていました。5年もしたら熱が冷めて撤退を余儀なくされるだろう、と。ところが、昭和58年のオープン初年度に入場者数が1000万人を突破して以来、右肩上がりが続いた。35年以上たった今では入場者3000万人を超え、私が入社したころは誰も知らなかったオリエンタルランドが就職人気ナンバーワン企業になるほどです。
消えた慶應のミッキーマウス
ディズニーランドの進出は、大きく言うと日本の文化を変えるほどの出来事だったと思っています。例えばクリスマスです。私が大学を卒業したころの日本のクリスマスは、サラリーマンのお父さんがとんがり帽子をかぶって、お酒を飲んだ帰りにケーキを買って帰るというイメージでした。それが、東京ディズニーランドで毎年クリスマスイベントをやるようになったことで、親子で家族で、恋人同士で楽しむイベントに変わっていった。パークがいちばん華やかになるのがクリスマスですからね。
ハロウィンも同じです。余暇の楽しみ方やエンタテインメントのありようなどにも大きな影響を与えたように思います。面白いところでは、早慶戦の話があります。かつて早慶戦といえば、慶應はミッキーマウス、早稲田はふくちゃんを掲げて応援していた。それが、ディズニーランドが来ることになって慶應はミッキーマウスを使えなくなりました。それまでは、日本の至るところにミッキーがいた。それをひとつひとつ、なくしていったんですね。当時の日本はかつての中国のように著作権や肖像権といった権利関係についての意識が低かった。それがディズニーランドの進出によって目を覚まさざるを得なくなったという面があったのです。本当に、いろいろなところに影響したと思います。
学院時代はブラスバンド部に所属してトランペットを吹いていました。大学ではニューオリンズ・ジャズクラブに入ります。ひとつ下の後輩には著名なジャズトランぺッターの外山喜雄君(13期 政経)がいます。あるとき、ディズニーランドでデキシーバンドをやりたいと言ってきたので、担当者に紹介した経緯があります。結局、彼はオープンから23年もの間、東京ディズニーランドで活動することになったのです。ファンタジーランドのステージや、ニューオリンズスクエアのコーナーで演奏したり。若い頃の外山君は音楽家として自己の音楽を追求するイプでしたが、ディズニーランドでの活躍を通じて、お客様を楽しませるエンターティナーとしての成長があったように思います。これも、影響のひとつですね。
◆【我が人生】「ジャズとサッチモのロマンに魅せられて……」 13期 外山喜雄
辞めなくて本当によかった
人事担当役員をしていたとき、新入社員の内定式で何かエンタテイメント会社らしいことができないものかと考えました。思いついたのが、自分がトランペットを吹くことでした。ディズニーの名曲、『星に願いを』を披露したところ、自分で言うのもなんですが、とても好評だったことを覚えています。ディズニーランドでは本当にいろいろなことを経験させてもらいました。
私の入社から55年、オープンから37年、時は流れ、入場者数も激増するなか、東京ディズニーランドも少しずつ変化をしています。若い社員との議論の中で、「もう奥山さんの時代とは違うんですよ」と言われ、寂しく思うこともありますが、時代の変化に合わせていくのは仕方のないことかもしれません。
振り返ると、入社早々に辞めなくて本当によかった。当時、日本では大きなプロジェクトが2つあると言われていて、ひとつが三井物産のイランでの油田開発、もうひとつが東京ディズニーランドでした。いずれも過去最大級のプロジェクトで、そのひとつに携われたということはサラリーマンとして非常に幸運だったと思います。(談)
構成・30期 山口一臣