【思い出】「学院に入ってよかった」15期理事 中川 龍 (第10代理事長)

                     1964(S39)卒 15期理事 (第10代理事長) J組 中川 龍 建築  

「学院に入ってよかった」

 人生75年、曲がりなりにも、我ながらよくここまで生きてこれたな、と言うのが誕生日の実感だ。亡くなった父の齢をこえて4年近く時が経つ。この年齢になると人生の晩年にいることをしみじみと思う、とよく父は言っていたが、私自身はまだその心境には至っていないが確実に年はとった。

 この年をとる、というときの「とる」とはどんな意味合いを言うのだろう。ひけをとる、不覚をとる、遅れをとる、手間をとるなどと同じと考えると、えらくマイナスの意味合いを感じるから、そうは考えたくないものだ。反対に、天下をとるとか1位をとるなどであれば成功を意味することになるが、年をとることがそんなに大層なことでもないし、さりとて仲介の労をとるというような「とる」だと、苦労した割に成果を評価されないものにとられかねない。広辞苑の「とる」の項には10種類の意味合いに大別されており、それぞれにまた枝分かれしているため気が遠くなる思いがしてしまう。

 取る、採る、捕る、穫る、摂る、撮る、盗るなど、いやはや日本語は難しい。私自身はこれからの残りの人生の生きざまを悪くとられないように振る舞うことを心掛けるようにしてはいる。

 閑話休題。積み重なっていく年月と日々の中で、昨日のことは思い出せなくとも、はっきりと覚えているのは60年余り前のことだ。高等学院に入学したいと思ったときのことを書いてみたい。それは昭和35年の11月のことであった。東京中野区の区立中学校の3年生であった私は中間試験も終わりやっとサバサバした気分であったに違いない。公立高校から国・公立の大学を目指すことしか考えられなかった我が家の経済的状況であったから、万が一にも失敗してしまったら高額の入学金やら月謝のかかる私立高校に入るしかないことになる。それはとても許されない事態であったから、公立高校といっても域内で難関の高校に無謀に挑戦する愚はおかせなかった。どうやら受験予定の高校への入学レベルはクリアできていると自信を深めてはいた。

 そこへ父から驚くような話を聞かされたのだ。おまえ早稲田に行け! 耳を疑うとはこのことであった。私立高校とは我が家では公立を落ちた時の最悪の道であった。おまえ早稲田に行け、学院に行け、借金してでも行かせてやる! 信じたいけど信じられない言葉であった。そこには男の約束は必ず守るという父の決意が伝わってきて、拒むことなど許されなかった。今まで学習塾など行ったこともない自分にとっては、自習で受験に立ち向かうしかなく、それには過去の問題集をおさらいしてみることから始める方法しか思い浮かばなかった。

 池袋にあった新栄堂という書店に行き、過去5年の問題集を買った。受験科目が公立とは異なり主要5科目ということで、手にした問題集は1㎝ほどの厚さしかなかった。しかし実際のところ戦意を喪失させんばかりの出題がズラリとあり、こんな漢字見たことも聞いたこともないような単語が目白押しに並んで見えた。例えば「示唆」という言葉の読みは想像することさえできなかった。解答を見てそれを暗記するしか短期決戦では勝ち目がないと思えた。只やるしかなかった。机にかじりついた。そしてついに合格を勝ち得た。私にとって人生で最初の大勝負に勝ったのだ。

 昭和36年4月1日早稲田大学高等学院のピッカピッカの一年生になった。

 父はなぜ借金してまで私を早稲田に進めたかったのだろうか。本当のところはそれを尋ねたことはなかった。両親と私は中国大陸からの引揚者であった。父は福岡で生まれた八番目の子で、その名も八郎という。上級の学校に進学したかったが経済的には許されず、唯一師範学校への入学ならば官費で行けるということで、その道しかなかったのだ。卒業後は規定通り教壇に立ったが、かねてからの志である中国での雄飛を目指し海を渡ったのだ。

 敗戦は父の夢を打ち砕き引揚船で帰国せざるを得なかった。上京してから戦前叶えられなかった大学への進学を計画したと聞いたことが一度だけある。しかし進学どころか、家族を養うためには、不本意であったが教職に戻るしかなかった。その中で叶えられなかった自分の夢を長男の私に託したのであろうと想像する。父が行きたかったのが早稲田だった! とわかる。

 学院入学の折に父がこう言った。全国から学院に入ってくるのは秀才揃いだぞ、地方には本当の秀才がたくさんいるぞ、そのつもりで励め。事実、皆優秀であった。

 あれからちょうど60年。同窓会の一理事として上石神井に足を運ぶたびに懐旧の念が甦る。鬼籍に入った友を想い出すとき、彼らとの懐かしい語らいがまざまざと甦ってくる。学院に入ってよかった。幸運であった。同窓会理事長として立ち会った数年前の卒業式で、卒業証書を手にした後輩が壇上から声高らかにこう言ったのを鮮明に覚えている。

「学院に入ってよかった」。