【今思うこと】「学生を子ども扱いしなかった学院教育の神髄」44期理事 坂井崇徳
1993年(平5)44期理事 坂井崇徳 L組 法
「学生を子ども扱いしなかった学院教育の神髄」
私の学院卒業は1993年3月、担任は音楽の矢野好弘先生でした。あれから28年、当時の思い出や最近思うことなどを書いてみます。
部活動のこと
1年生の頃に入らせてもらったESSの活動は盛んでした。ただ、私は英語で競技ディベートをやるうちに、英語より政策議論そのものに惹かれるようになりました。また、早稲田の政治家と言ったら雄弁会、ということも聞いていましたから、政治の道もと思っていた当時は、学院で「雄弁部」という名前の部活をやるということになんだか格好のよさを感じていました。
そこで、廃部になっていた雄弁部の顧問であった河津哲也先生に再登板をお願いして、私が部長としてクラスメイトに声をかけ、雄弁部を復活させました。
主な活動は高田馬場のルノアールでだべることでしたが、都立九段高校の弁論部と討論会を企画したり、国士舘高校や東海高校の弁論大会に参加したりしました。私のことをどこからか聞きつけた遠藤哲哉先輩から声をかけられて、学院生の3年間NHKの高校生のディベート番組に関わるようにもなりました。
幻の演説会
大学でも学生運動の時代はとっくに過ぎ去っていましたが、小劇場ブームの時代に学生運動の演劇を見た私は、学院内でアジ演説をしてみたいと思いました。そこで、大学にあるような立て看板をつくって、学院のピロティーで演説会をすることにしました。演題は、「学院に本当の自由はあるのか」でした。
とはいえ、本物の活動家の知り合いがいたわけでもなく、タテカンは、どうやって作ればいいのかよくわからないので、渋谷の東急ハンズで角材を買ってきて、適当に四角い枠を作り、模造紙を貼りました。雄弁部員で友人の中村健人君にタイトルを墨書してもらった記憶です(ちなみに彼も現在弁護士です)。
そうして、大きな立て看板もでき、事前に化学科の中山先生に許可をとってあった拡声器を借りに行きました。すると、突然体育科の福島正秀先生がでてきて、「拡声器は貸せない」「翌日のピロティーでの演説会は中止せよ」と言われたのでした。
私は「教員が生徒の表現の自由を制約するのは間違っている」と抗議したのですが、福島先生は確か「ピロティーでマイクを使って演説してはいけないのは10年前の教員生徒協議会で決まっている」とかなんとかおっしゃって、結局、残念ながらそのころの私の胆力ではとても福島先生にはかなわず、長い話合いの末、演説会は中止になりました。私はせっかく作ったタテカンを蹴り飛ばして部屋から退出した記憶です。
学院の外での体験
当時の学院は学校としての修学旅行はありませんでした。なんでも、京都で二条城に勝手に忍び込んで酒盛りをしていて補導された学院生がいたからとか言われていたと思います。もっとも、修学旅行はなくとも、学院のクラスメイトとは天文部からテントを借りて八丈島にキャンプに行ったり、NHKの撮影現場で知り合った都内のいろんな高校の生徒達とバスを仕立てて数十人でスキーツアーに行ったり、と毎年同世代との旅行には行っていましたので、特に不満はありませんでした。
また、自分で3週間ほどのアメリカ西海岸旅行を計画して行ったことが懐かしく思い出されます。学院2年生の17歳の春休みのことでした。
サンフランシスコ、リノ、ラスベガスとグレイハウンド(長距離バス)で数日ずつ滞在してはまわって、最終目的地がロサンゼルスでした。
ロスは車社会で、免許もなかった私は満足に観光が出来るか危ぶんでいましたが、ネバダ州を通っている間に10万円以上カジノで勝ち越したことで、その点は問題がなくなりました。どうやって17歳の子どもがプライズを受け取ることができたかはさておき、高校生のころの予想外の10数万円は大金で、宿泊費も一泊3千円とかを想定していたので、あまった分をハリウッド、ユニバーサルスタジオ、グランドキャニオンと観光ツアーに充てることが出来ました。
当時、ロサンゼルスは黒人を暴行した警察官への裁判に関連して治安が著しく悪化していました。しかし、私は人種差別を理解しておらず、旅行中にちょくちょく感じる違和感にも鈍感でした。ホテルに泊めてもらえなかったり、白人男性がぶつかって来てなじられたりするのも、自分が子どもだからなのかと思っていたぐらいでしたが、徐々にアジア人に対する人種差別であることに気づき、日本人がアジア人として差別されることに衝撃を受けたことを記憶しています。
いずれにせよ、航空券だけ予約して3週間以上自力で一人海外旅行を何とか終えました。この西海岸旅行から帰国して直後にロス暴動が報道され、自分が歩いていた道路に炎上した自動車が大破していましたから、私に今高校生の子どもがいて、同じことをしたいと言われたら絶対許さないでしょう。当時の私の親の寛大さに感謝します。ただ、この無謀な旅行を1人で完遂したことは高校・大学時代の自分の自信に繋がったと思いますので、結果としてはよかったです。
弁護士としての仕事
学院出身者の弁護士率は高いのではないかと思いますが、当時の学院L組のクラスメイトは私を含めて4人が弁護士を仕事として選びました。
私はいわゆる「街弁」で、自分の事務所で中小企業の法務と、市民の個人事(相続とか離婚とか交通事故とかです)を多く取り扱っています。
私が今力を入れて取り組んでいるのは、成年後見などの高齢者や障がい者の権利擁護活動です。今年度は東京弁護士会で高齢者・障害者の権利に関する特別委員会の委員長を務めています。
日本は、先進国の中でも極めて高い割合で高齢者が増えている超高齢社会となっているにも関わらず、今後若い人が減っていく中で家族が担えなくなってくる高齢者の権利擁護の担い手をどうするかについて、対策ができていません。そこで、地域ぐるみで高齢者を支えていこう、その一助として成年後見制度を位置づけて、利用を促進していこうとしています。
ところが、成年後見制度というのは自分のことを後見人がやってくれるようになる、逆に言えば、自分では自分のことをできなくしてしまう制度であるものですから、人権侵害、障害者権利条約違反だと言われる部分を含んでいます。よほど本人の意思を大事にしていかないと、保護のためといいつつ、差別をすることになるのです。これはすべての差別問題に共通するところですが、差別は本人の保護のためなのだといわれながら行われるものなのです。
例えば女性差別は今も話題になるところですが、つい70年ほど前までは、女性を保護するため、婚姻により禁治産者同様に無能力者として、有効な契約をさせませんでした。今では契約能力に男女差をつけるなどということは到底許される差別でないことはわかると思いますが、今の成年被後見人は、契約がひとりではできない立場に当然に置かれてしまうのですから、昔の女性と法的制度において同じ立場だとも言えるわけです。
高齢者・障がい者への差別意識が変えられていないから制度が変わらないし、制度が利用されないのだと思いますから、これから成年後見制度を利用促進していくならば、制度と差別の問題は、考えていかなくてはならない課題となっています。
人権意識と学院の教育
学院時代は、西海岸旅行から帰ってきて、ロス暴動を見て、人権問題について考えることが増えました。本も読みました。しかし、結局自分にはなんだかピンとは来ないまま、大人になってしまいました。
ところが、昨年、テレビニュースで、30年前と同じように黒人が暴行され、街頭でデモや暴動が起きている事態をみることになり、学院生の頃の記憶がよみがえることになりました。人間の心に刻まれているともいえる差別感情をなくすのは容易でないと思い知らされましたが、私の子ども立場の世代にも変わらぬ差別が引き継がれてはならないことだと思います。昔はそんなことがあったとは信じられない、と言えるように、今の我々が少しずつできることをしていきたいと感じています。
高等学院の教育のいちばんよいところは、尊厳をもっている個人として学院生を扱い、教員も対等な個人としてこれを遇するという雰囲気があるところと思います。自分が尊重されてこそ、他人の尊厳を尊重しようと思うものです。そのような教育こそが人権を尊重できるよりよい社会に繋がります。
思い返してみれば、当時の学院の先生方はとにかく高校生を子ども扱いせずに正面から話をしようと努力されていました。感謝の念しかありません。