【思い出】「福島正秀君を偲んで」 15期 石井正躬
1964年(昭39)卒 15期 石井正躬 A組 経済
福島正秀君を偲んで
8月26日、学院サッカー部OB会杉渓理事長から、福島正秀君が8月16日に亡くなったとのメールを受信しました。
定年退官の前、学院に入学して以来、50有余年を振り返りながら、彼らしい笑みを浮かべながら、早稲田生活を満足げに述懐していたことを思い出します。
とりわけ、河野宥先生の意思を受け継ぎ、そのほとんどを学院ならびに学院サッカー部の学生、部員と共に過ごした時間は、教職という普通の会社員とは異なる苦難の場面があったにせよ、この道を選んだことに迷いも悔いもない人生であったと思います。
思い返せば、学部の3年次だった頃でしょうか、河野宥先生に今は早稲田アリーナの裏にあった通称体育小屋に福島正秀君と私の二人が呼ばれました。
河野宥先生は定年間近にして自分の後継者を決めておきたいということがその時の趣旨で、できれば君たち二人のうちどちらかが学院の体育教諭になって、サッカー部部長先生職として学院サッカー部の面倒を見てほしいというものでした。
改めて河野宥先生の考え、教育学部への学士入学、2年間の追加学習、一般就職との兼ね合い等々を、二人の思いや意見を交わした結果、決して派手さはないものの、じっくり、こつこつと事に備える福島正秀君が適任であろうと、その重い任を託すことを決め河野宥先生に伝え了解された経緯があります。
この一事が、その後の彼と学院サッカー部の歩みの原点であったことを鑑みると彼にとても充実した幸せな人生であったと、少しばかりの羨ましさとともに鮮やかな記憶として甦ってきます。
学院サッカー部時代のエピソードとして忘れ得ぬ思い出があります。三年生の白馬岳の麓で行われた夏の合宿時の紅白試合でのことでした。
FBのポジションにいた福島正秀君は、日ごろの自転車で鍛え上げた太腿を駆使し、独走状態でボールを敵陣に運び攻め入ったところ、脇を抜かれたHB武内勝君が後方からタックルを仕掛けた。瞬時打ちどころが悪く肩から落ち、癖になっていた肩を完全脱臼してしまった。痛い痛いと叫ぶ彼をグランド脇に移し日陰を作り、みんなで声を掛け励ました。問題は町から接骨医を呼ぶには、到着まで2時間ほど待たなければならないことだった。その間次第に関節が収縮してしまい、事態は悪化してしまいました。接骨の先生が、冷え固まってしまった肩関節の整復のため、酷く痛がる福島君の脇に腕を入れ上腕を回そうとした時、事件は起こりました。 低く唸る声を発しながら、何と先生の腕に嚙みついたのである。私たちはその形相に驚き仰け反りながらも身体をしっかりと抑えて整復に力を合わせた。その晩交代で看病に勤しんだことなど一連の景色は『白馬事件』として今でも強烈な思い出として甦ってきます。
福島正秀君は、思うような試合展開が叶わないとき、よくハーフタイムに後ろから寄ってきて、あの低い声で『攻めが急ぎすぎているので、少し左の加藤道生君の方にボールを回し、拡げてから中央で戦うと勝機が出てくるぞ』と的確で冷静なアドバイスをもらい勝利を手にしたことも思い出します。
こうして長きに亘り、彼本来の持ち味で学院サッカー部員の育成指導にあたり、学院サッカー部の歴史を繋いでくれたことに対して心から感謝し、哀悼の辞といたします。
令和3年10月
1964年早稲田大学高等学院サッカー部卒業 同期 石井正躬