【思い出】「四谷荒木町は花柳界だった」16期 鈴木洋一
1965(昭40)卒 16期 鈴木洋一 H組 経済
「四谷荒木町は花柳界だった」
早大学院16期生の鈴木洋一と申します。私は現在、四谷荒木町という町のど真ん中でとんかつ屋をやっています。今は息子が主にとんかつを揚げていまして。私はお運び専門です。
この場所はかつて花街(はなまち)と呼ばれた場所です。私はここから上石神井の学院や早稲田大学に通いました。学院時代にはグランドホッケー部に入部し、東伏見グランドで走り回っていました。と言ってもキーパーでしたのであまり走りませんでしたが、隣の馬術部では吉永小百合さんが馬の世話をしているのを遠目にちらちらと見ながら練習をしていました。大学時代は家の手伝い半分、授業半分の毎日でした。ちょうど学費値上げ闘争が起こり、ほとんどの科目がレポート提出だったのが卒業に幸いしました。
さて、この荒木町が花街になったのはちょっとした訳があります。少し時代をさかのぼってみましょう。
江戸時代、荒木町は岐阜のお殿様、美濃高須藩松平摂津守の上屋敷でした。幕末の会津藩主で有名な松平容保や尾張徳川家14代藩主徳川慶勝などで知られた「高須四兄弟」の生まれたところです。そのお屋敷のちょうど真ん中に大きな「むちの池」というのがありました。徳川家康が鷹狩りの際にむちを洗ったという言われからその名が付きました。
それが明治になると、滝見や小舟遊びをする東京市民の憩い場になるのです。その池には湧き水や玉川上水からの水が引かれていました。しかし、幕領地でなくなったため引き水を止められ、池水は次第に抜かれ、そこにも料亭や料理屋が出来るようになりました。腕利きの板前や芸の達者な芸妓が各地から集まりました。
荒木町の花街の始まりです。
明治6年には「桐座」という芝居小屋が開かれ、明治30年には「末広座」がたち、ここで「四谷怪談」演じたところ大変な人気になりました。両方とも火事や座主が亡くなったため消滅しましたが、もし健在ならば荒木町は劇場の街になっていたことでしょう。
大正、昭和になると、さらに花街は拡大し、芳町(現在は人形町)や新橋、赤坂などと都内でも有数の花街になりました。昭和3年には芸妓屋83軒、芸妓226人、待合63軒、料理屋13軒という資料が残っています。
さらなる繁栄を求めて昭和30年代には新橋演舞場を借り切って、荒木町芸者(津の守芸者と言った)による「津の守をどり」が開催され大いに喝采をあびました。その時のプログラムを見ると芸妓の資質を高めるため「四谷荒木町芸妓学校」を立上げ、顧問に当時の作家で「祇園小唄」の作詞を手掛けた作家永田幹彦を迎え踊りや唄だけではなく習字や生け花等も修練させ人間形成にも力を注ぎました。街としてもそれを盛り上げて地域の各商店が広告を出しました。さらに驚くべきは伊勢丹、三越などの百貨店、ハイヤー会社、サントリーやアサヒ等の酒販売業が広告掲載に賛同したのです。
いろいろな業界の人が街に入り込んでいた証拠です。
その頃、永井荷風や森繁久彌、田辺茂一(紀伊国屋書店創設者)などが足繁く街に出入りしていたようです。
荒木町を舞台にした小説も数多く書かれています。あんまさんを描いた舟橋聖一「女めくら双紙」、織物に生涯を賭けた女性を描いた芝木好子「群青の湖」、兜町の相場師ギューちゃんを描いた獅子文六の「大番」などです。
しかしながら昭和の後期になると花街で遊ぶといった粋な人々が少なくなり、景気が落ち込んだことなどがあったのでしょうか昭和58年に花街は完全消滅してしまいます。
一方、わが店は昭和33年に江東区深川から、荒木町に移転して来ました。私が小学校5年生の時です。街にはまだ50人ほどの芸者さんがいまして、とんかつ店にもお座敷がはねたお客さんと芸者さんがいらしてくれました。芸者さんから「おひねり」(お客様からのチップで和紙に包んである)のおこぼれをもらったことを記憶しています。
芸者衆は、お正月に見番やお世話になる料亭などに挨拶周りをした時の写真です。現在のとんかつ店は花街の見番という事務所や唄や三味線の稽古場があった建物です。
父がとんかつの仕事から手を引くと私と母が店を切り盛りしました。花街が無くなり四谷三丁目駅からも少々離れた場所なので売り上げが次第に減少してゆきました。さらに近くの河田町にあったフジテレビや若葉町の文化放送が台場などに移転をしてしまい、昼間は人通りも少なく猫が闊歩する猫町と言われるようにもなりました。花街が無くなり四谷三丁目駅からも少々離れた場所なので売り上げが次第に減少してゆきました。
その前は、荒木町はフジテレビの城下町だと言われていました。テレビ局などが接待でこの街を利用したのです。その時多くの有名人を見ました。読売巨人軍監督の長嶋茂雄さんが、私の目の前を通りすぎた時は巨人ファンだった私は夢かと思いました。クレイジーキャッツの植木等さんが酒が飲めないのに高級焼鳥店に入るのも見ました。まだ現役のイチローさんが大リーグの冬休みに寿司屋に入るのを数度見ました。大相撲の貴乃花が横綱の綱を作るとき大勢の弟子に寿司をふるまう光景も感動モノでした。「東京やなぎ句会」が荒木町「万世」でも開催され、入舟亭扇橋さん、加藤武さん、永六輔さん、小沢昭一さん、柳家小三治さんなどが参加されました。そのうち、永さんと小沢さんは当店の隣の荒木公園で時間待ちをされているのをよく見ました。たくさんの著名人文化人が荒木町を通りすぎました。
そんな折、荒木町は面白い街だと言って入り込んできた、いわゆるよそ者・若者たちが現れました。「荒木町を発見する会」と名のって毎日街に出没するのです。彼らは荒木町は、江戸時代の歴史が面白い、かつては芸者さんがいた、さらに街の真ん中に都内でもまれにみる大きなスリバチ地形がある。というのです。ここに住んでいる私達町住民はそんなことは当たり前でなんの 利益にもならないと思っていましたがこれが宝だというのです。
この時、私はこれをうまく利用して、何とか町おこしが出来ないかと考えました。商店会を作って町の活性化をもくろみました。もちろん彼らの手助けが大いに役立ちました。
今まで「うの丸横丁」(通りの入り口に芸者さんのかんざし等を売っていたうの丸商店があったので)と言っていたメインストリートを「通り名イベント」を盛大に開催して「車力門通り」に命名しました。かつて江戸時代には御所車図が描かれた門のあった「車力横丁」があったからです。
そしてその名は10年後の2010年には新宿区が正式に「車力門通り」と通りの標識をたててくれたのです。現在、荒木町は約400軒の色々な飲食店が集まっています。小料理店、すし店、居酒屋、スナック、もちろんとんかつ店もあります。
さらに、最近になって老舗有名店で働いていて独立した若い経営者が独自のアイディアを持って出店し、多くのお客様を呼んでいるのも荒木町の特徴です。飲食店街に世代交代が起こっています。
ところで、ここのスリバチ地形は東京スリバチ学会の皆川典久氏の推奨もあって、雑誌、テレビに取り上げられたり、タモリさんがテレビで紹介してくれたこともあって四谷の街歩きでは外せないスポットになっています。
残念ながら元花柳界の面影は年々無くなっていますが、一度階段を下りると元の高さまで戻るには階段や坂を上らないと戻れないのが荒木町のスリバチ地形です。小さくなってしまったむちの池(地元では「かっぱ池と呼んでいる)ですが現在大きなスッポンや鯉や亀が泳いでいますし、早春には20年前に甲府の伊那市高遠町から頂いたコヒガン桜が優美な姿を見せております。
皆様もよろしければ、江戸の大名屋敷に思いをはせ、かつての花街の風情を味わい、スリバチ地形のアップダウンを楽しみにに四谷荒木町に来てみませんか。