【今思うこと】「学院ブラバンからジャズ仲間との交流へ」12期 宮原明 

1961(昭36)12期 宮原 明 G組 経済

「学院ブラバンからジャズ仲間との交流へ」

 

「学院ブラスバンド部」

筆者

 学院入学と同時にブラスバンド部に入部しました。当時の音楽との関わりは、レコードも有りましたが、主にラジオと映画でした。「グレンミラー物語」、「ベニーグッドマン物語」、「五つの銅貨」、「真夏の夜のジャズ」等で、何となく意識することなくジャズを聴いていました。トランペットを選んだのは、音色と華々しさに憧れたからでした。

 学院のブラスバンド部の思い出は、野球の早慶戦です。早慶戦だけは、外野にも応援席があり、大学の応援部と学院のブラスバンド部が担当していました。従って、学院の3年間、早慶戦は全試合観戦したことになります。

 当時の早慶戦はスポーツの一大イベントで常に満席でした。学院3年の時、球史に残る早慶六連戦(1960年11月6日~12日)がありました。早稲田が2勝1敗で同率に持ち込み、決定戦では引き分け2試合の後、6戦目で早稲田が3対1で勝利し優勝しました。 (6試合の観戦者 38万人)

 神宮から明治通り経由で早稲田までの優勝凱旋パレードがあり、ブラスバンド部も参加しましたが、後半は唇が麻痺状態で、音を出すのに苦労したことを思い出します。

 又、同時期は60年安保闘争で世の中は大混乱でした。世の中の風潮は安保反対の大合唱で、学院生の中にもデモに参加する者もいました。私は中学生の頃から、国防には軍備が必要と考え、日教組に侵された社会科の教師と激論を戦わせる変わった学生で、安保容認派でしたが、当時は沈黙を守っていました。

 ロシアのウクライナ侵攻の現実を如何に考えるかは、問われています。

 又、九州一周の修学旅行は、未だ新幹線がなく在来線で回る今では考えられない位のゆったりした旅行で、今考えると濃密な2学期でした。

「ハイソサェティー・オーケストラ(通称・ハイソ)」

大学時代 後列右から2番目が筆者

 大学に進み、ハイソサェティー・オーケストラ(通称・ハイソ)に入部しました。ブラバンから同時に入部したのは、岩村秀夫君、笠原克信君、他から浅沼肇君でした。練習場は旧記念会堂の裏手の木造平屋建てで、交響楽団、ハイソ、ニューオリ、モダンジャズ、ハワイアン、タンゴ、ハーモニカ等全ての音楽サークルが入っていました。練習場の窓は全て厚いベニヤ板で塞がれ、当時エアコン等の設備もなく、夏の練習時には、狭い室内でビッグバンドのメンバー20名が練習する為、蒸し風呂状態で、上半身裸で練習していても、30分経たない内に床が汗でびっしょり濡れており、未だ女性部員がいない時代だから良かったと思います。

(ベニヤ板で塞がれた原因は、現一ノ関のジャズ喫茶「BASIE」の菅原正二君で、彼の著書の中で自白している。)

 当時は学生バンドの全盛期で、ベイシースタイルのハイソは人気・実力(?)共にトップクラスであったので、コンサート、ダンスパーティー、時にはラジオ、テレビの出演を含め、年間200回以上の仕事をこなし、更に、春・夏休みには北海道から沖縄まで各地の稲門会主催のコンサートに出演する演奏旅行があり、超多忙なバンドであった。

  (カウント・ベイシー = ビッグバンドの神様で、ハイソの目標でもあった。)

  (ダンスパーティー = 学生や社会人サークルが盛んに開催していた。今も盛んであれば、若干の少子化対

   策になったかも知れない。)

  (沖縄は返還前でパスポートが必要であった。)

 1963年、カウント・ベイシー初来日の時は、音色の美しさ、圧倒的なSWING感等、本物のビッグバンドの凄さを思い知らされました。チケット購入に苦慮し、新宿厚生年金会館は出演したこともあり、同期の浅沼肇君と関係者を装い、2時間前に楽屋口から入り、トイレに隠れ、開演直前に客席に紛れ込むという苦肉の策の行動も行った。

 産経会館のダンスパーティーに出演時、じっとこちらを見つめている女性を発見したが、ステージを降りる時に小学校の同級生であることに気付き、後に結婚することとなった。『人生とは、一瞬で決まる不思議なもの』だと思った。

 卒業後は、ハイソ時代に音楽のセンスがない事を痛感したので、聴く側に回った。今もレコードを聴いたり、月2回程度のジャズライブを楽しんでいる。

学院生の皆様、是非ハイソへの入部をご検討ください。

「ルイ・アームストロング(サッチモ)を敬愛する 外山喜雄君」

左から2人目が外山氏、右端が恵子さん

 学院のブラスバンド部の1学年下に、大学のニューオリンズ・ジャズクラブ(通称・ニューオリ)で大活躍した名トランペッターの外山喜雄君がいます。ニューオリンズ名誉市民、現デキシーセインツのバンドリーダーである彼は、誰よりもルイ・アームストロング(サッチモ)に憧れ、敬愛しています。

 彼は、卒業後、一旦会社員という堅気な人生を歩み始め、ニューオリで唯一の女性部員だった姉さん女房の恵子さんと結婚しました。しかし、サッチモへの憧れが捨てきれず退職し、1968年ニューオリンズへ武者修行に移民船ブラジル丸で出港したが、背中を押したのは恵子さんだったようだ。

「男は、結局女性の手のひらで踊る。」運命らしい。(外山君、失礼!)

 5年間の現地での修行後、帰国し、1975年 デキシーセインツを結成した。コンサート活動等をし、1983年からは、東京ディズニーランド開業と共に、23年間出演し続けた。彼が並のジャズ・ミュージシャンと違うのは、1994年「日本ルイ・アームストロング協会」を設立し、サッチモの精神を受け継ぐ社会活動をしたいと思いを巡らしたことです。

サッチモこと、ルイ・アームストロング 写真:佐藤有三

 サッチモが少年期、ピストルを発砲し少年院入れられ、そこのブラスバンドでコルネットと出会い、比類なき才能を開花させたことは、彼の著書にも書いてあります。この事実から、治安の悪いニューオリンズの子供達を麻薬やガンから遠ざける為に、楽器を送る活動を始め、既に850本以上の楽器がニューオリンズに送られている。

 私が大腸がんで女房を亡くした翌年、落ち込んでいる私に見かねたのか、ニューオリンズのジャズツアーに誘ってくれ、ジャズの発祥地・ニューオリンズを訪れる機会を得た。

 外山夫妻とツアーメンバーで、楽器を寄贈する為に、高校を訪問したが、校門に「ガン持込禁止」のプレートが貼ってあったのには驚いた。高校のブラスバンドの大歓迎を受け、外山夫妻の活動の素晴らしさを再確認した。ニューオリンズのライブハウスでは、外山夫妻は有名人で、外山君がトランペット,恵子さんがバンジョーで参加したジャムセッションは大盛り上がりで喝采を浴びていた。ツアー中、恵子さんの重いバンジョーを運ぶバンドボーイを務めたのは、私です。

 東日本大震災の翌年には、ニューオリンズの少年のバンドを招き、東北被災地での慰問コンサートを開催し、その翌年には、被災した気仙沼の子供ビッグバンドをニューオリンズに連れて行き、ニューオリンズのジャズ・フェスティバルに出演させた。

 外山君は、ルイ・アームストロングを敬愛し、近付く事に努力した人だと、私は思う。

 これは、ジャズ喫茶「BASIE」店主の菅原君から聞いたエピソードです。2000年に、外山君のニューオリンズ・ジャズクラブの後輩で、ソニーレコードの名ジャズプロデューサーの伊藤八十八君が、アメリカ人の女性ヴォーカルのレコーディングをする時に、外山君にトランペットとヴォーカルで参加することを依頼した。菅原君が、南青山にあった伊藤君の事務所「88(エイティー・エイト)」でこのCDを聴いた時、

 菅原君 「八っつぁん、サッチモを上手く入れ込んだね。」

 伊藤君 「違いますよ、外山さんですよ。」

 菅原君 「え!」

 並外れた聴力を持ち、連日、サッチモを含めたジャズレコードを聴き続け、「日本一音の良いジャズ喫茶」を造り上げた菅原君が、すっかりサッチモと思ったということは、外山君、貴方は限りなくサッチモに近付いている証だと、私は思います。

 私が古希を迎えた時、未練がましく所有していた愛用のトランペットを外山君に寄贈し、今は、ニューオリンズの子供が吹いてくれていると思います。

       参考) 【我が人生】 「ジャズとサッチモのロマンに魅せられて……」  https://wasedash.jp/527/

「カウント・ベイシーを敬愛する 菅原正二君」

カウント・ベイシー (1983年来日時、電動スクーターー”アミーゴ”で登場)

 私の同年で、結核を患い、克服し、ハイソに入部するために3浪して早稲田に入学した不屈の男が、菅原正二君です。彼が、カウント・ベイシーを最初に知ったのは、浪人中に購入した中古レコード「Basie in London」であった。それまで不明瞭だった『自分の世界』にやっと出会えたと、著書に書いてある。

 それ以来、「カウント・ベイシー」が憧れ、敬愛の対象となった。彼がハイソ入部に固執したのは、ラジオの大学対抗バンド合戦を聴いて、学生バンドの中で、「ベイシーに一番近い音」を出していたからとのことだった。入部直後、1年生の彼は、「ハイソはベイシー路線で行くべきです。」と宣言した。ドラマーを目指し、連日夜遅くまで猛特訓を重ね、レギュラーの座を獲得した。(これが、部室の窓が全てベニヤ板で塞がれた原因です。)

大学対抗バンド合戦で3連覇を達成し、彼がバンドリーダーの時には、プロバンドを差し置いて、日本初のビッグバンドの米国西海岸のツアーを敢行させている。卒業後、プロドラマーとして活躍したが、結核が再発し、故郷一関に戻った。

一関 ジャズ喫茶「ベイシー」

 闘病後、自宅の蔵を改造し、日本一音の良いジャズ喫茶「BASIE」を造り上げ、今では「ジャズの聖地」と称せられて、日本はもとより世界中のジャズファンが押し寄せている。

 カウント・ベイシーと初めて話をしたのは、1971年二度目の来日時、新宿厚生年金会館のステージのソデで、翌日、ジャズ評論家でもあり、多岐にわたり才能を発揮されたもう一人の恩師・野口久光先生に連れられて、アメリカ大使公邸でのベイシー歓迎レセプションに行き、正式に紹介された。それ以来、ベイシーは菅原君に「Swifty(スウィフティー)」と愛称をつけてくれ、日本の息子の様な付き合いが続くこととなる。

 ジャズ喫茶「BASIE」には、ベイシーを始め、エルビン・ジョーンズ、アニタ・オディ等、国内外数多くのレジェンド・ジャズ・ミュージシャンが訪れている。

 女房を亡くした3カ月後、退院したら「BASIE」に連れて行くと励ましていたので、女房の写真立てを持参し、BASIEを訪問した。テーブルに座り、写真立てを置くと、彼は黙ってコーヒーを置いてくれた。彼の細やかで暖かい気遣いには、今でも感謝しており、忘れることが出来ない。

 そんな頭上に暗雲が垂れ込める様な毎日を送っていた2000年夏に、ANA(全日空)が「男たちの旅」というテーマで小論文を大募集した。菅原君の著書に、『ジャズ喫茶「ベイシー」の選択』という本があり、その最終章が

「ロングアイランド~カウント・ベイシーの墓前にて」で終わっている。私も生きている内に、出来れば一度行ってみたいという願望を持ち続けていた。勇気を振り絞って、下記の要旨で投稿した。

 『我々も程なく還暦を迎えるが、素晴らしい青春を与えてくれ、その後の人生の支えにもなってくれた  

  COUNT BASIEの墓参りをし、感謝の気持ちを伝えると共に、20世紀の思い出を噛締めたい。』

 応募したことさえ忘れていた9月末に、ANAから連絡があり、4000通近くの応募の中から、海外部門で大賞になりましたとのことであった。10月末に、何故か宮沢りえがゲストで、一言のコメントもない表彰式が挙行された。そこで、参加者全員の東京・ニューヨーク往復のビジネスクラスの航空券と賞金50万円を受賞し,賞金は参加者全員のホテル代に充当した。審査委員の伊集院静氏からは、「真か、墓参りがテーマに出てくるとは思わなかった。」との発言があった。

カウント・ベイシーの墓前にて 左から緒方氏、伊藤氏、菅原氏、筆者、浅沼氏

 冬のニューヨークは寒いので、翌春以降としようと決めたが、又しても、菅原君がCOUNT BASIE OHCHに連絡し、お墓のあるロングアイランドでコンサートがあるという情報を掴み、7月下旬と決定した。

 7/25にニューヨークに到着し、その翌日、1回目のCOUNT BASIEの墓参りを実施した。当日は雨模様であったが、菅原君の案内でお墓のあるパインローン・メモリアルパークに到着、我々の心掛け良かったのか雨も上がり、感激の墓参となった。

 墓は大きな建物の壁面に墓石が嵌め込まれており、我々は墓石に一輪のバラを貼り付け、バラの花束、線香、葉巻を捧げ、菅原君はベイシー愛用のコロン「パコ・ラヴァンヌ」を墓石に振り掛けた。墓地はきれいに整備され、静かな佇まいで、我々はベイシーに感謝し、各々の思いに耽った。

 その午後、ベイシーの生まれ故郷のレッド・バンクに移動し、当日のコンサートが悪天候で中止になったこともあり、カウント・ベイシー・シアターや落ち着いた街をゆっくり散策することができた。この街は、全員が再度訪問したいと思うほど、実に味合い深い場所であった。

 7/28はホテルを午後に出発し、急遽到着した全日空の宣伝部長と墓前で合流し、前回通りのセレモニーを行い、カウント・ベイシー・オーケストラの出演するコンサート会場に移動した。開演までかなり時間があったので、楽屋を訪問しベイシー・メンバーとの交流、菅原君の手配で持参した日本酒一升瓶6本を土産として手渡した。コンサート会場は屋外で、席はバンドの好意で前から5列目の中央を確保してくれた。

 コンサートは9時のスタートであったが、前座の後、グローバー・ミッチェル指揮のカウント・ベイシー・オーケストラが満を持して登場した。グローバーは最初に、「日本の一ノ関から来た古い友人・ミスター菅原」を紹介し、満場の聴衆の大喝采を浴びた。彼とベイシー・ファミリーとの強い絆を痛感させられた。

カウント・ベイシー・オーケストラの楽屋前で

 アメリカで友人たちと聴くベイシー・サウンドに全員酔いしれ、大感激であった。ベイシーの墓参、コンサート、レッド・バンク訪問以外にも、ニューヨーク観光、ゴスペル・ツアー、ブルーノートでオスカー・ピーターソンを聴く等、充実した旅となった。

 帰国の翌日、全日空から今回のツアーが余りにも素晴らしかった為、テレビ・コマーシャルを制作したいので、再度渡米してくれとの要請があり、10/5~11と決定していたが、9・11の同時多発テロ事件が発生し、友人を危険に晒す事ができないと、私の方から断りの電話を入れた。その後、航空業界は低迷期に入り、「男たちの旅」が1回限りの幻の企画に終わったのは残念なことであった。

 2019年9月、ドキュメンタリー映画『ジャズ喫茶ベイシーSwiftyの譚詩(Ballad)』が絶賛公開され、「その男は、レコードを演奏する。」という副題と共に、彼の50年に亘る生き様が描かれており、鑑賞されることをお勧めします。

 https://www.uplink.co.jp/Basie/

「紀尾井ホールでのジャズ・コンサート」

 学院同窓会の現理事で、紀尾井ホールの制作部長をしていた山口真一君(早稲田大学交響楽団・ビオラ)が、クラシック音楽の殿堂「紀尾井ホール」でジャズ・コンサートを開きたいとの企画を持ってジャズ喫茶「BASIE」の菅原正二君を訪ねた。

 菅原君は、モダンジャズ等の判り難いものよりも、楽しいデキシーランドジャズから始めた方が良いと、即刻、外山喜雄君とデキシーセインツを紹介した。そして、2015年12月、「ニューオーリンズ・ジャズと素晴らしきサッチモの世界」と題して、外山喜雄とデキシーセインツのコンサートが満員盛況で行われた。

 翌年春、外山君から電話があり、菅原君にお礼の訪問をしたいので、日程調整を依頼された。(今まで、彼はジャズ喫茶「BASIE」を訪問したことがなかった為。) 

外山喜雄・恵子夫妻、同期の浅沼肇君、紀尾井ホールの山口真一君、私を含めて10名位で訪問した。日本のジャズ・レジェンドに数えられる、菅原君、外山夫妻の会話は、ジャズに対する造詣の深さ等、横で聞いている我々に深い感銘を与えた。暫く経ってから、カウント・ベイシーのレコードに合わせて、我慢出来なくなった外山君が、店に有ったトランペットを吹き出し、恵子さんがピアノを弾き始め、菅原君がドラムを叩き始めて、凄いジャムセッションが展開された。参加していた我々も、来店客も呆気にとられながらも、大いに盛り上がった。

 2016年12月にも、「ジャズの源流をたどる旅Vol.2 ビッグバンドの時代~スウィングしなけりゃ意味ないね」と題して紀尾井ジャズオーケストラが編成され、外山喜雄・恵子夫妻、守屋純子(ピアノ・ハイソ出身)、露木茂(司会・学院出身)で開催された。

 私は学院ブラバンと大学ハイソで素晴らしいジャズ仲間を持てたことは、幸運だったと思います。

 齢80歳を過ぎましたが、ジャズ仲間との交流時だけは、青春が蘇る。