【思い出】 「私にとっての原点」 17期 隅修三

                                                                                                  1966(昭41)年卒 17期 隅修三 C組  土木                                                         

「私にとっての原点」

 

 昭和41年(1966年)高等学院を卒業、理工学部、そして企業人としての49年が過ぎようとしている。

 私にとって、学院でのボート、大学時代の学生寮生活が、その後の私の生き方の原点、「タフな体力」、「自由な心」、「自立心」を育んでくれたと、つくづく思う。

 

 私は昭和38年、山口県の山の中から、夜行急行列車「安芸」に17時間揺られてはるばる東京へ辿り着いた。坊主頭で詰襟の学生が、初めて見る大都会に戸惑いながら、深大寺近くの下宿から上石神井の学院への通学が始まった。

  学院Cクラス独語では、地方出身者は数人で、都会っ子達の中でシャイな田舎者は、無口に様子を眺めるだけだった。

  兄の強い勧めで、野球部に入部してみたものの、溶け込めず1カ月で退部。

同じクラスのN君と、練習時間は短く、筋力が付く運動部があると聞き、ボート部を覗いた。これが運の尽きで、ボートとの付き合いが始まった。

後列左端が隅さん

 後から分かったのは、ボート部の練習時間が短いのは、極めてハードな練習を短時間、集中的に取り組むため、長時間続けるのは無理、という理由であった。 

 しまったと思ったが、2度も辞められない。

 放課後の練習は厳しく、殆どが陸上での筋力トレーニング、ランニング、サーキット等であったが、当時の運動部では珍しく、理不尽な根性論の押し付けはなく、理にかなった科学的で納得いくものであった。何とかついて行く間に、筋力も付き、殆ど出来なかった懸垂や腕立ても軽々と出来るようになり、胸板も厚く、肺活量も大きくなっていった。

 土日には隅田川沿い尾久の大学艇庫に行って、実際にボートに乗って漕いだ。4人の漕手に一人のコックスが乗る。 まだ東京オリンピックの前で、隅田川は想像を絶する汚さ。 様々なものが浮いているヘドロの中で、川岸の工場から流れ出てくる赤や黄色の煙を避けながらの練習であった。

 不思議なもので、そのような環境にも慣れ、あのヘドロの飛沫も気にならなくなった。 ボートが転覆して隅田川に放り出され、凍えた体を通りかかったタンカーに引きずり上げられたこともあった。

手前のクルーの右端が隅さん

 インターハイの直前の合宿では、後輩の作ってくれた夕食に全員があたり、酷い下痢の状態で試合に臨んだが、それでも何とか全国3位に入ることが出来た。

 東京都代表で臨んだ岐阜国体は、優勝候補であったが、極めて珍しい「くの字」型のコースで、内側コースに入り過ぎ迂回せざるを得なくなり、準決勝で敗退。この時ばかりは涙が出た。

 ボートのお蔭で体力に自信がついたが、勉強の方は、逆に下がる一方。 試験の前日に校庭で練習をしていて、先生にこっぴどく叱られたこともあった。

 後になって、後悔しきりであるが、特に悔まれてならないのは、英語をおろそかにしたことである。社会に出て、英語と接する機会が多くなる中、頭の柔らかい若い時に語学をキチンとやっておればとつくづく思う。

  大学でもボートを続けるかを悩んでいた矢先に、東京オリンピックの代表選手達が卒業して日本初の社会人クラブチームを結成することとなり、その考えに賛同する我々高等学院と慶應日吉のボート仲間が、大学体育会に行かず、そのクラブチームに参加した。 夢は大きかったが、学生と社会人の差もあり、長くは続かなかった。

  その後、ボートとは暫く離れたが、就職して会社のボート部に参加し、以後長きに亘り、ボートとの縁が今も続いている。

  海外とのビジネスに際して、ボートを漕いでいたということで、信頼関係をスムーズに築けたケースも幾度となく経験した。有難いことである。

  長きに亘る会社生活で、タフなスケジュールをこなし、精神的にも余裕を持て冷静に事に当たれたのも、ボートで培った基礎体力のお蔭であると感謝している。

高等学院は自由に溢れ、自分で考え、行動することが許された。勿論、その結果は全て自己責任であることが前提であった。こういう学生を大人として扱う風土の中で自由な心の持ち方、自立心が育まれていったと思う。

  その後、大学時代は和敬塾という目白台の椿山荘の隣にある学生寮で過ごした。地方から上京した異なる出身、異なる大学、異なる学部の学生達の集まりで、実にユニークな人物が沢山いて、多様な価値観との出会いであった。彼等との深い付き合いが自由な発想を育み、社会を見る視野を広げてくれた。加えて大学紛争での全共闘との闘いはディベート力、精神的なタフネスさを鍛えてくれたように思う。

 いずれにしろ、社会に出る前に自立した人格の基礎固めが出来た原点は、高等学院そして和敬塾にあったと思う。                                                     

               (東京海上日動火災保険株式会社相談役 日本経済団体連合会副会長)