【学院の思い出】「ひょっとしてその中学校は…」 15期 高谷尚志
1964(昭和39)年卒 15期 高谷尚志(たかやなおし) I組 工経
「ひょっとしてその中学校は…」
よくぞ、聞いてくれましたとばかり
「そう、吉永小百合が1学年上にいてね」
昭和36年4月、学院 1学年I組、 同級の 島野一彦君との会話です。
島野君は、小田急線参宮橋( 明治神宮下車駅)が最寄り駅。参宮橋から下り方面に代々木八幡、 代々木上原、東北沢、 下北沢と続きますが、私はその東北沢が最寄り駅。2人とも実家は渋谷区にあって、島野君は渋谷区立代々木中学、 私は渋谷区立上原中学校卒業です。
その頃の小百合さんは高校2年生で 輝かしい青春スター。
「自宅は知ってるんですか」
「 知ってますよ。 代々木中学のそばでね」
島野君に一度連れてって、と懇請したことは言うまでもありません。 ほどなく島野君は案内してくれたのです。 代々木中学の塀の傍らを通過したことは記憶してるんですが(写真1)、 そこから実に狭い路地に入りまして、しばらく進んで曲がったところに,今度はいくぶん開けた路地が広がってまして、 子供達が 縄跳びなどをして遊んでいました。 はいここ。塀で囲まれた木造2階建ての和風家屋。塀の内側には2階に届く 立木が何本か。
まあ 、ここで、 あの 小百合さんが、と感慨を新たにしたものです。あまりに路地が入り組んでいたもので、 自分一人でいけと言われてもとても自信はありませんでした。 さて、それから半世紀。
学院から早稲田へ、 早稲田から毎日新聞社に就職しまして、 まあ皆さんにあの ポジションで仕事をとご理解いただけるものとしては、経済週刊誌「エコノミスト」編集長などをいたしまして、2004年4月、千葉県銚子に新設された千葉科学大学危機管理学部危機管理システム学科教授となりました。
その時のことです。 学科は違うのですが私より少し年上でで仲良くしていただいた教授が定年を迎えるのですが、定年後は銚子のアパートは引き払い東京の自宅に戻るものの、東京の自宅から千葉県銚子の大学研究室に通い実験を続けるということで、大学との話し合いができているとのことでした。東京駅と銚子駅は特急「しおさい」が走ってます。
そこで私は、先生、JR東日本の大人の休日倶楽部に加入してますか。 65歳以上は運賃も特急券も3割引ですから、 これは大きいですよ。 とアドバイスいたしました。
それからほどなくして「しおさい」で先生とお会いしたもので、先生、本日の運賃と特急券は3割引 ベースなんでしょうね、と申し上げますと、先生は、 申し込んでるんですが なかなか手続きが進まないみたいなんですよ。
そこで私は「吉永小百合さんが、おじいちゃんおばあちゃん 、大人の休日倶楽部でお安く旅行を楽しみましょうね、とほほえみかけているのにね」(写真2)
すると 先生は
「吉永小百合は私の中学の後輩でね(その後2学年下と判明)」
「それでは代々木中学ですね」
「ど、どうして そんなことを知ってるの」
もう、皆さん、お分かりですよね。
「 私はその隣の上原中学卒業なもので」
「では、 あの イスラム寺院が」
代々木上原( 地下鉄千代田線乗り入れ前) と東北沢の中間地点あたり、小田急線の線路を挟んで新宿方面向かって左側にイスラム寺院の尖塔が 、右手に上原中学校の校舎が向き合っていたのでした。 先生がどこかの都立高校からカクカクたる大学の工学部を出られてという経歴は存じ上げておりましたが、まさか中学が隣同士とは。これも小百合さんのお引き合わせというものでしょう。
考えてみますと、代々木 中学の方々は全国どこでも吉永小百合がね、の 一言で母校を紹介できちゃいます。 残念ながらわが上原中は、それどこ?となるでしょう。 何か上原中にも全国銘柄はないの?と同期生に尋ねたところ、ありますよ、 忠犬
ハチ公です。ハチ公は渋谷駅の犬と思われてますが、 実は富ヶ谷(最寄りは代々木八幡駅)の植木職人宅で大事に育てられていた犬なんです。
この一言をきっかけに忠犬ハチ公と吉永小百合を軸にした郷土史というか地域史をまとめました。Amazonより紙の本と電子書籍で『わが代々木上原物語』(上下巻、写真3)。
小百合さん宅訪問時はまさか早稲田に進学されるとは夢にも思っていなかったわけですが、 調べていくと小百合宅ご近所に、早稲田にとって欠かせないある大物政治家がいたんですね。 そのお宅跡地は 現在ベトナム大使館になっていますが。図々しくも次回はその大物政治家についてご紹介したいと思います。