明治40年 作詞 相馬 御風 作曲 東儀 鉄笛 校閲 坪内 逍遥 |
【思い出】 「早稲田への想い 」 3期 中村明徳 (理事)
1952(S27)卒 3期 A組 中村明徳 法
早稲田への想い
1949年(昭和24年)に入学した学院3期生も、米寿(88才)を迎えることになりました。
あれから70年の年月と時間が経た日本と、その中にある早稲田も180度以上の変化を齎してきました。
従って今更当時の回想を記しても、実感を伴われない世代には通用しないものであるので、共通の話題として多少は取り上げて頂けると思われるテーマを述べることにした。
「都の西北」
「都の西北」と云えば早稲田大學を指すことは今でも変わりのないことであるが、早稲田大學の校歌であることを知っている人間は少なくなって来ていることは寂しい限りである。
校歌の名の付くものは日本全国に数千以上有ると思われるが、その中で「都の西北」は知名度に於いては群を抜いており、恐らく現在でもトップにランクされることには間違いないことである。
この校歌は一大學の校歌と云うより、戦前から学生歌として日本全国津々浦々まで知れ渡っていた。
そしてこの校歌に憧れて早稲田を目指した若者が如何に多かったことか。
そう云う私も早稲田大學が如何なる学校か知らず、この校歌に憧れて入学した一人であった。
相馬御風の詩は格調高いものであったが、最後の「ワセダ、ワセダ」のフレーズは坪内逍遥が付け加えたと云われている。
現在でも一般の人でもこの「ワセダ、ワセダ」のフレーズだけは知っているのが大多数である。
平成20年度の大學入学式で白井総長が祝辞の中で新入生に「都の西北」を大声で10回歌うことを提言していました。
現役の早大生で「都の西北」を知らない人間が過半数も居ることには驚かされました。
125周年の式典に出席した他大學の学長、来賓として来日した外国の学長が、早稲田の教職員が学生と一緒になって胸を張って腕を振り上げ誇らしげに歌うのを見て、このような校歌が存在する大學は羨ましいと感嘆の声を上げたとのことである。
校歌は愛校心の発露では無く、仲間との絆を繋ぐものであると思っている。
都の西北に関するエピソード
これは数えきれない位有ると思われるが、二~三挙げて見る。
1.大山郁夫教授の帰国
早稲田大學の教授 大山郁夫氏は自由主義者であるとのことで、当時の軍部からの圧力が強まり米国に亡命せざるを得なくなった。
戦後、1947年に帰国した氏を東京駅に出迎えた大群衆の中で早稲田の学生が中心となり、「都の西北」の大合唱が湧きあがり、これは歴史に残る特筆すべき名場面となった。
2.森繁久弥
1980年、早大の不正入学問題で、連日マスコミに叩かれている早大生を励まそうとして森繁久弥氏(旧制第一高等学院出身)が大隈講堂で「屋根の上のヴァイオリン弾き」を無償上演しました。
終演後、講堂前で待ち構えていた学生に手を振り「みんな頑張れよ」と何度も叫び、学生の音頭で「都の西北」の大合唱に自ら加わり涙を浮かべて歌っていた姿が印象的でした。
3.ロバート・ケネディ
1962年、第35代米国大統領ジョン.F.ケネディの弟であるロバート・ケネディ氏が来日した際、早稲田大學を訪れ大隈講堂でスピーチを行い、学生と意見の交換をしました。
講演後、外に出ると多くの学生が氏を取り囲み、「都の西北」の大合唱で歓迎しました。
ケネディ氏も合唱に加わり、それ以来早稲田のファンになったのか、アメリカでも「都の西北」を口ずさむ姿がテレビで放映されました。
なんだ、これだけの話なのかと思われる人も居ることでしょうが、校歌の有り難味は社会に出てから身に沁みて感じるものであります。
同窓の仲間は利害関係抜きでお付き合い出来るものであることを、理解して頂きたいと思っております。
一. 都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校 われらが日ごろの 抱負を知るや 進取の精神 学の独立 現世を忘れぬ 久遠の理想 かがやくわれらが 行手を見よや わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ |
二. 東西古今の 文化のうしほ 一つに渦巻く 大島国の 大なる使命を 担ひて立てる われらが行手は 窮り知らず やがても久遠の 理想の影は あまねく天下に 輝き布かん わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ |
三. あれ見よかしこの 常磐の森は 心のふるさと われらが母校 集り散じて 人は変れど 仰ぐは同じき 理想の光 いざ声そろへて 空もとどろに われらが母校の 名をばたたへん わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ |