【追悼】学院6期生・河野洋平さんを偲んで 11期 堤 哲

1960年(昭和35)卒 11期 堤 哲

学院6期生・河野洋平さんを偲んで

まず写真から。ホテルオークラでの偲ぶ会(8月5日)で会場出口に飾られていた。「弔問、ありがとう」と語りかけているようだ。洋平さんの人柄のよさが表れている。

大隈講堂の「感謝を伝える会」(9月14日)では、スライドが上映され、学院時代の写真が何枚も。こぶしを挙げている写真は、生徒会でという説明がついていたから3年生か。右の丸帽姿は学院1年生と思われる。

 

「政界のプリンス」と呼ばれただけのことはある。格好いいのである。宮沢喜一首相、後藤田正晴法相と3人並んだ写真に「護憲トリオ」の説明がついていた。

1967(昭和42)年に衆議院議員に初当選。14期42年余の国会議員生活だった。

50年前、1976年にロッキード事件が起きて、金権政治がやり玉に挙がった。洋平さんは、「真正保守」を訴えて新自由クラブを立ち上げた。39歳だった。暮れの総選挙で一大ブームを起こし、議席を大幅に増やした。

毎日新聞の社会部記者だった私は、永田町旧平河ビル2階にあった党本部でニコニコ顔で開票速報を見守る洋平さんを記事にした。

洋平さんは、その後自民党に戻って1993年7月第16代自由民主党総裁に就任した。しかし、総理大臣にはなれなかった。残念!

2003(平成15)年衆議院議長。09(平成21)年に退任するまで、歴代最長2029日間の在任記録だった(当時)。

学生時代は競走部の主務(マネージャー)。「早稲田スポーツ新聞」創刊第3号1960(昭和35)年1月20号に箱根駅伝で伴走のジープから選手を激励する写真が載っている。

——学園伴走車は毎年なじみの排気管を上に向けたジープで、前マネージャー河野洋平氏(丸紅飯田KK勤務)らが乗って「イチニイチニ」と選手を先導する。

 

 

 

3区中山昴選手(教育4年)を激励する洋平さん(ジープの中央)  同じ写真を使って報じる早スポ創刊第3号

早大が箱根駅伝で初優勝したのは、1922(大正11)年の第3回。復路6区河野一郎と7区河野謙三の兄弟が、そろって区間新記録でタスキをつなぎ、逆転優勝を飾った。

それだけに洋平さんにとっても、箱根駅伝は思い入れの強い大会である。

洋平さんは、2005年に稲門体育会会長に就任、「早稲田スポーツは強くなくてはいけない」「早慶戦には勝たねばならない」と訴え続けた。2026年4月、もう一期2年の続投が決まったばかりだった。

久しぶりに戦力が揃った来春2027年の第103回箱根駅伝。ワセダは優勝候補に挙がっている。駅伝監督花田勝彦さん(55歳)は、選手時代の第69回箱根駅伝(1993年)で4区区間新記録を樹立し、優勝を経験している。

「優勝祝賀会で洋平さんと一緒に喜び合いたかった」

駅伝関係者は誰もが残念がる。

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大隈講堂で9月14日、稲門体育会と早大競技スポーツセンター共催で開かれた『河野洋平氏に「感謝を伝える会」』。司会は競技スポーツセンター所長の石井昌幸教授。田中愛治総長に続いて、稲門体育会の新会長関口一行さん(野球部OB会「稲門倶楽部」会長、80年卒)、早稲田アスレチック倶楽部名誉会長櫻井孝次さん(56年メルボルン、60年ローマ、64年東京と3大会連続オリンピックに出場。59年卒で洋平さんと同級生)、サッカーJリーグを立ち上げ、文化勲章を受章した川淵三郎さん(ア式蹴球部主将・61年卒)が、それぞれ思い出を語った。

洋平さんが政治力を発揮したのは、マネージャーだった58年のインカレ。学連発足30周年を理由に、従来の2日を3日間開催に、1日延ばしたのである。部員が少ない早稲田は、優勝するには1人で何種目にも出場して、ポイントを稼ぐ必要があった。

桜井さんの記録を調べると、走高跳1㍍85で優勝、三段跳15㍍22、110㍍H15秒8で各2位、走幅跳7㍍17で4位。合計19点を獲得。チーム全体で108.5点を挙げ、2位日大に24.5の大差をつけてインカレ2連覇を果たした。

洋平さんが綴っている。「夕闇迫るグランドで優勝杯をもらい、まず沖田監督を胴上げし、つづいて父・河野一郎のがしりした体も2度、3度と宙を舞った」=『早稲田大学競走部七十年史』(早稲田アスレチック倶楽部84年刊)。

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早スポを創刊した初代編集長松井盈(教育学部63年卒、2007年没67歳)は、洋平さんがオヤジさんの後を継いで社長になった日本糧穀(ニチリョウ)に就職。結婚式は洋平さん夫妻に仲人をしてもらった。

「私がキャプテンのときのサッカー担当が松井編集長。早スポに写真入りで紹介されたが、日本代表でバンコクへ行った時、現地の駐在員が松井クンだった。大歓迎されて、自宅まで押し掛けたよ」と川淵さん。

洋平さんも、川淵さんも「早スポ」創刊時からの応援者なのである。

私は、60年に学部に進んで、「早スポ」第4号を10円で買って、即入会。第3代編集長となり、現在は「早稲田スポーツ新聞会」OBOG俱楽部会長である。

 

河野家を代表してお礼の挨拶をしたのは、やり手衆議院議員の太郎さん。慶應高校から米ジョージタウン大卒。洋平さんの生体肝移植ドナーになった。

最後に参列者全員で「早稲田の栄光」「紺碧の空」「早稲田大学校歌」を斉唱した。リーダーは応援部主務の武本啓良さん(社会科学部4年・早実)。

本来は、キャプテン山口和真さん(政経4年・学院)の出番だが、この日は神宮球場で早法3回戦が行われていて、キャプテンは神宮球場を離れられないのだという。

その早法3回戦。午後2時に式が始まる前までは、早稲田が7-1でリード、6回の裏に2点を返されたが、まだ4点差。勝点は問題ないだろうと思っていた。

閉会と同時にスマホを開いたら、なんと8-9で逆転負け。

「早稲田スポーツは勝たなければならない」

そう言い続けてきた洋平さんの会が進行しているときに、逆転劇が展開されていたわけだ。皮肉である。

河野洋平さんは、2026年(令和8年)6月8日逝去、89歳だった。ご冥福を祈りたい。

                                     以上