【追悼】河野洋平先輩に学ぶ ――「早稲田愛」と平和への思い 38期理事 森木亮太

1987(S62)年卒 38期 森木亮太 D組 政治

河野洋平先輩に学ぶ ――「早稲田愛」と平和への思い

学院6期の河野洋平さん――。32年後輩にあたる38期の私が、この偉大な先輩について記すことは大変恐れ多い。しかし、これまで多少のご縁をいただいたこと、そして同窓会の先輩から執筆の機会をいただいたことから、私なりに河野先輩の歩みを振り返ってみたい。

私が河野洋平さんのお名前を初めて知ったのは、1976年(昭和51年)頃だった。河野さんらが自民党の金権政治や派閥政治を批判して離党し、「新自由クラブ」を結成した時期である。当時、私はまだ小学生だったが、既成政治に一石を投じるその姿には、子ども心にも「政治が変わるかもしれない」という新鮮な印象を受けた。昭和の遠い記憶ではあるが、今も鮮明に残っている。父・森木亮が学院5期生で、河野さんの1年先輩にあたり、折に触れてその名前を耳にしていたことも、私の中で河野洋平という存在が早くから刻まれた理由の一つだったと思う。

次に河野さんのお名前を強く意識したのは1995年である。私は社会人4年目、三菱銀行(当時)の一社員として日々の業務に追われていた。前年には、自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権が成立し、社会党の村山富市さんが首相に就任。河野さんは副総理兼外相として村山内閣を支えていた。

その1995年9月、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きた。県民の怒りは大きく広がり、超党派による大規模な県民大会へとつながった。私は連日テレビでその様子を見ながら、日米安全保障体制のひずみが集中する「沖縄」の現実に心を揺さぶられ、これを遠い出来事として見過ごしてはならない、自分自身の問題として向き合わなければならないと考えるようになった。

当時の沖縄県知事・大田昌秀さん(早稲田大学卒)は、日米地位協定の見直しを日本政府に強く求め、河野外相にも申し入れた。ところが河野外相の対応は、沖縄側の期待に応えるものではなかった。地位協定見直しを求める動きに対し、「議論が走りすぎている」と受け止められる発言をしたこともあり、県民の反発を招いた。当時の私にとって、これは河野洋平さんへの苦い記憶となった。

もっとも、今振り返れば、それは河野さん個人の思想信条だけでは動かすことのできない、日米関係という大きな構造の難しさをも象徴していたのではないかと思う。平和や対話を重んじる政治家であっても、現実の外交・安全保障の中では厳しい制約に直面する。その矛盾と苦悩もまた、河野洋平という政治家を考えるうえで避けて通れない側面である。

こうした沖縄での出来事に衝撃を受けた私は、7年間勤めた銀行を退職し、1998年に沖縄へ移住した。仕事の傍ら沖縄戦の戦跡を巡り、遺骨収集にも参加するなど、沖縄の歴史と向き合った。

1999年には、稲門会の先輩のご縁で、県知事を退任された大田昌秀さんが立ち上げた研究所の研究員となった。2000年刊行の『沖縄の決断』では、私も原稿整理などを手伝った。大田さんは同書で、1995年当時、「ハト派」と見られていた河野外相に期待していただけに、その対応に大きな失望を覚えたことを率直に記している。

一方、河野さんは1999年に発足した第2次小渕改造内閣で再び外相に就任し、2000年に名護市で開催された九州・沖縄サミットでは、第2次森内閣の外相として何度も沖縄入りし、開催の成功に力を尽くした。私も当時、大田昌秀さんのもとで沖縄に暮らし、その姿を見聞きした。その後も河野さんは政界引退後に沖縄を訪れ、2012年には琉球新報社の「琉球フォーラム」で、1995年の少女暴行事件をめぐる身柄引き渡し交渉の経験に触れ、沖縄の基地問題に十分な解決策を示せなかったことへの思いを語っている。

その後、大田昌秀さんの国政進出に伴い、私は2001年から公設秘書として政治の世界で働くようになった。大田さんの引退後は山内徳信参議院議員に仕え、その後、選挙での落選などにより他の議員にお世話になった時期もあったが、現在まで吉田忠智参議院議員のもとで仕事をしている。

吉田議員は、自治労出身で、同じ自治労にルーツを持つ村山富市元総理の政治的な志を受け継ぐ一人でもある。

その村山さんが2025年に亡くなられ、「お別れの会」が開かれることになった。自治労、社民党とともに吉田議員も実行委員会の呼びかけ人に名を連ね、もう一人の呼びかけ人となったのが河野洋平さんだった。かつて自社さ政権で副総理兼外相として村山政権を支えた河野さんは、その依頼を快諾された。私も諸先輩方とともに、お別れの会の事務局をお手伝いすることになった。

お別れの会当日の4月20日。会場となったホテルニューオータニ「芙蓉の間」近くの来賓控室に、河野さんがお付きの方とともに姿を見せられた。私は来賓接遇の担当としてお迎えしたが、「少しお疲れなのだろうか」というのがその時の印象だった。すでに病と闘っておられたことを、河野さんの逝去後に知った。村山さんのお別れの会からわずか一月余り。あまりにも早い旅立ちに驚きを隠せなかった。「村山さんの後を追われたのだろうか。天国で再び自社さ政権かな」――そんな思いさえ胸をよぎった。

その河野さんが晩年、私たちに残してくださった言葉の一つが、4月20日の村山さんお別れの会で読まれた弔辞だった。大分合同新聞に掲載されたものから、一部を紹介したい。

「村山富市さん、こうしてお別れのごあいさつをしなくてはならないことが、非常に残念でたまりません。101歳という天寿を全うされたとはいえ、日本の政治の良心であり、『市民の宰相』と言うべき偉大な先生を失ったことは、わが国、そして国民にとって言葉に尽くし難い大きな損失であります。心より哀悼の意をささげます。戦後50年という日本にとって大きな節目になる年に総理を務められたあなたは、東西冷戦が終結し、『これも天命じゃ』と腹をくくって日本のかじ取りを担われました。その最大の功績は、30年たってもなお今の内閣に継承される村山談話が打ち出した平和への思い、強い思いに凝縮されていると言っても過言ではないでしょう。」

河野さんはさらに、村山さんが植民地支配と侵略の歴史に誠実に向き合い、護憲、軍縮、社会福祉、善隣外交という信念を貫いた政治家だったと振り返った。冷戦後の大きな転換期、自民党総裁だった河野さんの要請を受けて総理就任を決断した村山さんが、「自民党政権ができなかったことをやらせてもらおう。それを歴史的使命としたい」と語った時の姿を、今も忘れないと述懐した。自衛隊や国旗・国歌をめぐる政策転換など、社会党委員長として苦渋の決断を重ねながらも、党派を超えて国難に立ち向かったその覚悟は、今なお多くの政治家の道しるべであると高く評価した。

そして河野さんは、万感の思いを込めて次の言葉で村山さんを送り出した。

「今、政治は再び激動期にあります。世界では大国が次々と戦争に手を染め、歯止めのない核軍拡が進む時代は、力による正義とかいう、いかがわしい言葉がまかり通る、帝国の世に逆戻りしたような感じです。国内にあっても、困窮する人々の生活が二の次となり、政治と金の宿弊から逃れられない旧態依然とした政治が頭をもたげ続けています。このような時に、力強く平和の尊さを説き続けてこられた、あなたの示唆に富むご見識を伺えないのは、誠に残念でなりません。それでも、あなたの前に、私は誓わずにはいられません。あなたがたどった平和への歩みを、私たちが受け継いでいくと。どうかやすらかにお眠りください。」

このような言葉を残した河野洋平さんは、それから一月余り後、村山さんの後を追うかのように旅立った。1937年に生まれ、戦争の記憶を背負った少年時代から、戦後復興、高度経済成長、冷戦、55年体制の崩壊、政権交代、そして21世紀の国際社会までを生きた河野さんの人生は、そのまま戦後日本政治の歩みと重なる。

2026年4月20日村山富市元総理お別れの会で弔辞を読む河野洋平先輩

 

 

 

 

1976年には自民党を離れ、新自由クラブを結成した。1993年には官房長官として「河野談話」を発表し、戦争と植民地支配の歴史に向き合う姿勢を示した。自民党総裁としては、長年対立してきた社会党との連立に踏み切り、村山政権を副総理兼外相として支えた。衆議院議長時代には、与党だけでなく野党の意見にも耳を傾け、合意形成を重んじる議会運営に努めた。

私自身、その姿勢を間近に感じたことがある。2007年10月3日、沖縄戦の「集団自決」をめぐる教科書検定意見の撤回を求め、沖縄県民大会実行委員会の要請団が上京した際、私は当時、山内徳信参議院議員の秘書として要請行動に随行していた。仲里利信県議会議長らとともに議長公邸を訪ねた際、河野衆議院議長は要請団の訴えに真摯に耳を傾け、「沖縄戦を風化させてはいけない」との趣旨のお話をされた。そのやりとりを私は今も覚えている。戦争の記憶に向き合い、それを次の世代に伝えていかなければならないという河野さんの思いが、このやりとりに凝縮されていたように思う。河野さんは、2008年には各国議会の指導者を広島に招き、「平和と軍縮」を世界に訴えた。

もちろん、河野さんの政治家としての歩みには、賛否の分かれる判断も少なくない。内閣官房長官時代の1993年に発表した、いわゆる「河野談話」や、先に触れた沖縄政策についても、さまざまな評価がある。その検証は読者諸氏に委ねたい。ただ、時代の風向きが変わっても、対話、平和、歴史への誠実さという価値を手放さなかったことは、河野洋平という政治家の大きな特徴だったのではないかと思う。

河野さんが亡くなられた後、私は6月12日に河野太郎さんの議員会館事務所と虎ノ門の河野洋平さんの事務所を訪ね、8月5日にはホテルオークラで行われた「偲ぶ会」に参列した。その折、長年河野さんに仕えた側近の方が、「本当に早稲田愛の強い方でした」と語っておられたことが印象に残っている。

河野さんは早稲田大学高等学院から第一政治経済学部へ進学し、競走部では1958年度に主務を務め、日本学生陸上競技対校選手権大会で男子総合優勝を果たしたチームを支えた。晩年には、箱根駅伝を沿道から応援し、稲門体育会会長として、早稲田スポーツの発展と後輩の育成にも力を尽くされた。政治の第一線を退いた後も、母校への思いは変わらなかった。

そして9月14日、大隈講堂で開かれた「河野洋平氏に感謝を伝える会」に、学院同窓会の山口真一先輩(33期)とともに出席した。田中愛治総長やご遺族の河野太郎氏などが河野先輩への感謝と思い出を語り、映像上映や献花、「早稲田の栄光」「紺碧の空」「早稲田大学校歌」の斉唱を通じて、そのご功績とお人柄を偲んだ。

会場で配布された資料には、河野先輩が「早稲田スポーツとは」と題して記した文章も収められていた。そこでは、大隈重信が説いた智育・徳育・体育に触れるとともに、「附属・系属校の部活動の支援」にも言及している。学院から早稲田に学び、生涯にわたって母校と後輩を思い続けた河野先輩らしいお言葉だと感じた。その「早稲田愛」と志を、学院同窓会に集う私たちも受け継いでいきたい。

私が河野先輩に、早稲田大学高等学院の後輩として初めて直接ご挨拶できたのは、2015年4月29日だった。当時、学院同窓会理事長であった山口真一先輩に導かれ、同窓会総会後に学院食堂で開かれた懇親会でご挨拶する機会をいただいた。短い時間ではあったが、同じ学院で学んだ者同士として言葉を交わせたことは、今も懐かしい思い出である。

河野洋平先輩から学ぶべきものは、華々しい経歴だけではない。組織に身を置きながらも、必要な時には異論を唱えること。対立する相手とも対話し、妥協点を探ること。そして、戦争の惨禍を繰り返させないという戦後政治の原点を忘れないこと。それらは、政治に携わる者だけでなく、同じ早稲田で学んだ後輩である私たちにも残された宿題ではないだろうか。

「早稲田愛」と平和への思い。その二つを生涯大切にされた河野洋平先輩の歩みを胸に刻み、私自身も、自分の立場で何ができるのかを問い続けていきたい。河野洋平先輩のご冥福を、謹んでお祈り申し上げる。

2015年4月29学院同窓会理事長の山口真一先輩(33期)とともに同窓会懇親会で河野洋平先輩に