【思い出】「学院サッカー部の思い出」 22期 大屋和雄
1971(S52)年卒 22期 大屋和雄 A組 機械
学院サッカー部の思い出
学院入学の目的は、サッカーをしたいとの強い思いでした。中学生時代、駒沢競技場で開催されたサッカー天皇杯の決勝戦を観戦したことが、早稲田でサッカーをしたいというモチベーションになりました。その試合は、東洋工業と早稲田大学の試合、釜本さん、ニ村さん、森さんが出場した、正に早稲田大学ア式蹴球部の全盛期でした。東洋工業は天皇杯三連覇がかかっていましたが、早稲田に軍配が上がりました。学院サッカー部、ア式蹴球部、JFL、そして日本代表選手への道を頭にイメージして学院へ入学。
当時の学院は、関東大会3位、そしてインターハイ東京都代表を常に勝ち取っていましたので、最も厳しい環境下でレギュラーになると心に決めました。
1年生の時は、受験での詰込み効果で何とか元級(原級?)を免れましたが、2年生になると成績が急降下。赤点が4-5教科、平均点で60点台になり一躍元級最有力候補生になりました。それもそのはず、教科書、ノートはロッカーに保管して自宅へは持ち帰らず、登下校時の大きなカバンの中には弁当2食、スパイク、練習着だけ。これでは最有力候補生になっても当然のことでした。担任の先生からは休部を勧められました。”先生、この学校へはサッカーをするために入学した。休部するなら退学する”と言い返しましたが、父親から一喝されました。
”何のためにお前を早稲田へ入れたと思っているのか” (残念ながらサッカーするためとは言い返せませんでした)
心を入れ替え、少しは勉強をしたとは思いますが、それほど急に成績は良くなりません。当時のサッカー部長の先生は、3学期の点数に120点をつけてくれました。もう時効でしょうから大丈夫でしょうが、”河野先生、本当に有難うございました”。(3学期の成績は1、2学期の平均点になるので、表面的には分かりません。現在の学院生の成績評価法は分かりませんが)
話をサッカーに戻しましょう。当時のサッカー部員は120名、1年生だけでも80名以上いました。レギュラーチームの他に4軍まであり、主な一年生は5軍でした。関東大会、インターハイ予選も学生服でのボール拾いでしたが、夏合宿でトップチームに抜擢され、その勢いのままインターハイ(広島)へ同行しました。1回戦の延長後半、キャプテンの怪我で急遽CFとして出場。最初のプレーでダイビングヘッドがゴールをかすめ、相手CBの注意をひきつけました。次のプレーで左コーナー近くから絶好のグラウンダーのパスがきました。相手GK、CBともにひきつけた瞬間、ボールをスルー、後ろにいた3年生が無人のゴールに流し込みました。3:0で勝利。2回戦も2:1で勝利しましたが出番はありませんでした。3回戦、秋田商業(このインターハイで優勝)戦、勝ち目はないので抽選勝ち狙い、上手く行けばカウンターで勝負とのことでした。この試合に勝てば、準々決勝からTV中継がありました。延長戦の末0:2敗戦。涙また涙で幕。
2年生の時は、腰の怪我もあり十分な活躍が出来ませんでした。3年生の関東大会東京都決勝戦、石神井高校に抽選負け。石神井は関東大会決勝まで進み、永井選手(後のマンガ”若き血のイレブン”の主人公になった選手)有する浦和南に負けました。インターハイ予選帝京に負け。国体予選、準決勝で城北に0:1で敗戦。こうして高校サッカーの幕は降ろされました。
その後、理工学部への進学を決め、ア式蹴球部へは入部せず、勉学(?)に励むことになりました。
最後に学院の素晴らしいことを書きます。
- 受験勉強をしないでスポーツ、学業(?)、他の好きなことに没頭できる環境がある。
- 素晴らしい先生、先輩、同期、後輩がいる。
- 第二外国語の選択は、他校にはない特徴。(会社入社後、フランスからのお客さまの応対に、人事部からフランス語の達人(?)として推薦され応対を一任された。それこそ毎晩徹夜でにわか勉強をして切り抜けました。これほどフランス語を勉強した経験はありませんでした)
- 慶應義塾高校という好敵手がいる。ライバルとして、目標にする経営者として、そして友人など、沢山の人材を輩出している。
今でも自分の青春時代は学院にあります。最も感受性の強い、そして自我に目覚めるときに受けた学院時代の経験が人生を作ったといっても過言ではないでしょう。