【思い出】 「プライスレス」 32期 石田直也
昭和56年卒業 32期 C組 石田 直也
「プライスレス 」
残り10分、そこが我が学院サッカー部の限界だった。
昭和55年、夏のインターハイ東京予選の準決勝で、当時最強の帝京(昭和50年から60年までの間、高校選手権で5回優勝)と対戦。正直かなり運に恵まれた準決勝進出だった。その年の帝京は冬の高校選手権でベスト8止まりだったものの、東京では負け知らず、一か八かの勝負となった。
試合開始早々、ずっと押され気味だったが、最初のチャンスで偶然が重なって先取点が取れてしまった。右サイドバックのO君から左ウイングだった私への長いクロスボール。正直、今もよくわからないのだが、届きもしないクロスボールに敵か味方か誰かがジャンプして反応した動きがブラインドになったようで、なぜか私のマークが少しずれた。帝京の私のマーカーは慌てたと思うが、トラップした時、私の前には上手そうなキーパー一人の状態。ここで少し閃めいた。
きっと相手マーカーが直ぐに体を寄せてくるだろうと思い、とっさにトーキックでシュート。ボールは強いシュートを想定していたであろうキーパーの脇をすり抜けてゴールイン。格好は決してよくはなかったが1点は1点。マークがずれていなかったら生まれなかったであろう1点が入った。
後で知ったことだが帝京にとってはこれが東京予選での初失点。「お前の点が早過ぎた!」と後でまわりに言われた。今となっては懐かしい昔話。
その後、敵ながらアッパレの華麗なパス回しで1-1の同点になって前半終了。
これも後で判ったことだが、ほぼ1プレーしかしていない私と違って、バックス陣には相当な疲れが溜まっていた。フォワード3名は元気だった。CFのH君、左右両ウイングのY君と私だ。この3名のこの試合に賭けるモチベーションは高かった。あと2試合勝ち進めば、インターハイに出場できる。そうなるとインターハイの期間と夏合宿の期間が重なっていたので、あの反復練習と走ること中心の合宿を避けられる。今思えばそんな不謹慎な理由が最大のモチベーションになっていた。理由は何であれ、これが後半に次なる幸運をもたらすのだから試合はわからない。
後半も完全に帝京ペース。タレント揃いのバックス陣が体を張って何とか凌いでいたが、パス回しに加えて帝京のシュートレンジの拡さが脅威で、ほどなく追加点を奪われ1-2となった。さらに追加点を奪われてもおかしくない展開だったが、後半に訪れた我々にとっての最初のチャンスでPKを獲得する幸運に恵まれた。何であんなに簡単に右サイドを突破出来たのか、左サイドからでは良くわからなかった。キッカーはW君。ど真ん中に豪快に蹴り込んで、2-2の同点。試合後W君は「真ん中を狙った」と言っていたが、私には、前半の私の点と同様、あまり深く考えずに蹴ったことで、相手のキーパーの意表を突いて生まれた1点だと思えてならない。
同点になった時点で試合時間はかなり残っていた。ここから帝京の猛攻が始まり、何とか凌いでいたが、残り10分くらいになって、右サイドから崩された。左サイドバックのS君はチーム1のスタミナの持ち主。そのS君、最後は足が攣っていた。終わってみれば2-4。点差以上の実力差はあったが、あれから40年経った今も、皆で集まればいつもこの試合の話になる。綺麗な点ではなかったけれど、私にとってはプライスレスな1点だったことに間違いない。
今冷静に振り返れば、最後は走力の差。私なんかは普段の練習中、力を抜くことばかり考えていた。H君、Y君も然り。このFW3名は組織的には不満分子の範疇。人格者であるキャプテンN君はやりにくかったと思う。でも当時、福島先生がよく言えば個性的、悪く言えば「文句ばかり言う」メンバーが複数名いた中で、N君をキャプテンに据えたことで、チームが微妙にバランスしたことは事実。組織にとって人事が大切なことを、実は学院時代に学んでいたことになる。
走力と言えば、毎日の練習の最後に「インターバル」という名の、当時の私からすれば、「ここでいかに力を抜くか」という50m走が待っていた。毎日20本位走っていた。ある日、ちょっといじめっ子気質のあるコーチが10本終わったところで、以降は「勝ち抜け」なんて新ルールを導入して、足の遅い部員は、結果トータル30本位走らないと練習が終わらないという辛い日々が続いた。
よっぽど辛かったのか、一つ下の別のO君が替え歌を創った。当時流行った歌、もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」の替え歌でその名も「タバル・オールナイト」。有名なフレーズ、「ダンシング・オールナイト 嘘に染まる」が「タバル・オールナイト 恐怖に染まる」にトランスフォームして、これには当時も大爆笑。でも、純真な高校生を恐怖に染めてはいけません。
こんなこともあった。当時のマネージャー連中は本当に練習熱心で、且つ常にチーム・ファーストだったが、そんな彼らから「新しいユニフォームを創ろう」という提案があった。練習嫌いな私も、こういう企画ものは大好き。早速、現在のプレミアリーグ所属チームのユニフォームをヒントに“見た目の格好良さ”重視で構想を練った。不満分子のH君、Y君も巻き込んで、結構盛り上がったところで企画ストップ。詳しくは知らされなかったものの、どうやら有力OBから“待った” があったようだ。「学院のユニフォームは“えんじ”でなければならない!」と。今であれば「それ早く言ってよ」という心境だ。
もちろん企画案でも“えんじ”は入れてましたよ。アクセントに。しばらくすると「“えんじ一色”でなければならない」と更にトランスフォームしてしまって、出来上がったのはいつも通りの何の変哲もないユニフォーム。ジャージに至っては、“えんじ一色”に左胸に縦に「早大」の白文字。伝統重視だとしてもこれでは学年詐称。でもそのジャージが今でも私の自宅の洋服タンスに大切に仕舞ってある。どうしても捨てられない。私にとってはこれもプライスレスな想い出だから。
サッカー部以外のことも少々。この4月に会社の新入社員に何か喋ってくれとの依頼があった。コロナ禍なので非対面。4月はまだZOOMとか使えず、CISCOの電話機での講話とのこと。さてさてどうしたものか。結局思いつくままに3つ、意識して欲しいことを話すことにした。3つのキーワードと関連するピクチャーを1枚のペーパーにまとめて事前にメールで送った。3つのキーワードは、以下の通りだ。
①「勉強よりも遊び心」 勉強して知識を学んでも、プラスアルファがないとお客さんに評価されない。
このプラスアルファを身につけるのに必要なのが“遊び心”だと話した。配布資料にはサッカーボールがメロンパンになっている合成写真。数年前のキャロウェイのゴルフボールから思いついたもの。あのゴルフボール飛ばなかったけど。
②「いつも心にみかん箱一つ」 これは、学院の創立30周年式典での河野洋平さんのフレーズ。
社会人になった時に心掛けて欲しいこととして、「みかん箱を一つ、いつも心に持っておく心の余裕が大切だ」と熱く語られていた。「壁にぶつかった時、難しい判断をしなければいけない時、ここぞという時にみかん箱に乗って全体をよく眺めてみると、新しい道が見えてくる」という深い話だった。今でも私の行動源泉になっている言葉であり、実際に社会人になって、3回はみかん箱に乗ったと思う。今の世界のリーダーを眺めてみると、台湾の蔡さんも、ニュージーランドのアーダーンさんも、ドイツのメルケルさんもきっとみかん箱を持っているに違いない。ニュースで見たが、アーダーン首相の趣味はDJをすることらしい。“遊び心” も持っているに違いない。
③「ブルーオーシャンの開拓」 競争の激しいレッドオーシャンではなく、ブルーオーシャンを開拓しないと、会社も個人も成長しない。
なんて、たいそうな3つの話を新入社員にしたものの、CISCOの電話機に向かって喋っているだけなので、反応はわからずじまい。でも自分自身の“遊び心”“みかん箱”“ブルーオーシャン”、これは、いずれも学院時代に形成されたもの。だから自信を持って話ができる。
結びに、サッカー部の新年会、C組のクラス会が毎年開催されているが、何歳になっても当時の話で盛り上がる。皆、まったく変わっていない。この心地よい関係も私にとってのプライスレス。でもコロナ禍では開催出来ない。今は我慢しかない。