【夢】「アマオケ人生 ~ 『夢』を諦めない !」  33期 岸川秀文

1986(昭和61)年卒 33期 J組 岸川秀文 理工

 

「アマオケ人生 ~『夢』を諦めない !」

 

学院ブラスからワセオケへ

 中3のころ、吹奏楽部に1年在籍していた。音楽の先生の勧めで打楽器を担当した。受験で忙しく練習方法もよくわからず中途半端だった。某KO義塾高校は日吉も志木も受かり、日吉の面接では「うちにはオーケストラがあるよ」と面接教員に歓迎されたが、自分の生まれが佐賀なこともあり、大隈先生の早稲田を選んだ。

 学院に入ると、体育系のいくつかの部から「君、体格いいねぇ」とお誘いを受けたが、結局吹奏楽部を選んだ。吹奏楽部は寒い旧講堂のステージが根城。私が入ったとき打楽器は2年生1名3年生1名。先輩方はあまり練習にいらっしゃらず、一人で3役をやることも多かった。合奏以外の時間は基礎練習と称して通常のスティックの2倍太い重い撥で、メトロノームを前に置き単純なリズムをたたいていた。基礎練習で叩いていた板は、どうやら元指揮用譜面台らしく、厚さが2cm近くあった。これを卒業までに割ってやるとばかり毎日のように叩いていたら、2年ぐらいで割れた。

 学院の吹奏楽部は、吹奏楽オリジナル曲以外にも管弦楽曲の編曲をよく演奏した。私が1年の時は、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」という難曲に取り組んだ。この曲は1楽章と5楽章で数分間の間にティンパニの音が9つも出てくるが、当時、素早く音を変更できる楽器がなく、無理があった。もう時効だと思うので言ってしまうが、当時3年の先輩が「半音ぐらい違ってもわかんえねよ」とシャープやフラットを落として本番も演奏してしまい、当時は「へぇそんなものかな」と思ったが、長調と短調ぐらい違うことをよくステージでやったもんだと今思い出しても恐ろしい。

 学院を卒業すると、早稲田大学交響楽団(通称ワセオケ)に入団。一緒に学院ブラスからワセオケに入った同期はホルン奏者の会沢悟氏だけだが、学院ブラスの先輩後輩も多かった。ワセオケは大変厳しく、当然のように1年は定期演奏会での演奏機会はなし。2年になって演奏機会をもらっても、いつ降ろされるかヒヤヒヤしながら4年間を過ごした。4年最後には海外演奏旅行を経験。理工学部でワセオケに入ると絶対留年するという噂もあったが、かろうじて4年で卒業した。

アマチュアオーケストラ生活を始める

 ワセオケがあまりに大変だったので、卒業後2年は音楽活動を何もしなかった。しかし海外演奏旅行時のふがいない自分の演奏を思い出すにつけ、「死んだらこの世に悔いが残る。悔いが残ったら化けて出なければならぬ。化けて出るのだけは避けたい」とアマオケ活動を再開。2001年頃入ったFAF管弦楽団では10年近く運営委員長をやっていた。

 アマオケは東京だけでも何百とある。その由来も様々で、地域の集まり、学生のOB、会社、が大多数。そういう緩い集まりに百人近くも在籍しているので、バラバラな好みを集約すると無難な選曲になる。しかし自分がやってみたい20世紀の曲は編成が大きくお金もかかり、技術的にも難しいために、できても10年に1度くらいだった。全部やるまでには死んでしまう。そんな中、ロシアの作曲家「ショスタコーヴィチ」専門オケというのに2回参加。みな嬉々として演奏していた。歌謡曲にもジャズにもみな好みはあろう。クラシックにも好みがあってもよいではないか。そうこうするうちに東日本大震災を経験。未曽有の大災害を目の当たりにしでも無力な自分ができることと言ったら、音楽だけだった。そこで震災の2か月後、指揮もするワセオケの旧知の先輩、児玉章弘氏と立ち上げたのが「みなとみらい21交響楽団」だった。

自分でアマチュアオーケストラを動かす

 「みなとみらい21交響楽団」では私が代表を務めることになった。運営のノウハウはFAF管の経験で全部頭に入っている。オケのコンセプトは、編成が大きく特殊楽器も多い「後期ロマン派」を中心に「なかなかできないことをやる」に決めた。曲は普通のアマオケでは手が出ない難曲、グスタフ・マーラーの交響曲第9番に決定。それでも90人もの人が参集してくれ、2012年に初コンサートを開いた。学院吹奏楽部1年後輩で我孫子市民フィル団長を務めていたフルート田中浩氏(32期理事)も初回から参加してくれた。学院ではないワセオケ時代の同期や先輩後輩も20人近く集まってくれ、今に至る。

 結成当初は一回限りで終わり、も想定していたが、折角人が集まったのだから、とその後を企画。1年2回の演奏会で、大曲難曲ばかりを次から次へと取り上げた。マーラーの交響曲第2番「復活」やショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」、昨年ついにサントリーホールで演奏したヤナーチェクの「シンフォニエッタ」やマーラーの交響曲第6番「悲劇的」は特に思い出深い経験となった。シンフォニエッタは自分がティンパニを担当、当然シャープやフラットを落とさず譜面通りに演奏したのはいうまでもない。

 アマオケはそこそこお金がかかる。1演奏会あたり一人4~5万負担が相場である。かかるコストで大きいのは本番のホール代だがこれは削れない。そこで楽器を安く入手し、自前の倉庫に置いて運送屋さんに運搬してもらう形をとった。さらに演奏される曲に出てくる特殊楽器「ハンマー」や「サンダーマシン(雷の音)」「ウインドマシン(風の音)」「鉄板」まで自作。これで楽器調達コストを、レンタル業者様からレンタルする他オケの半額程度に抑えた。毎回百人近いメンバーが集まってくれることもあり、1演奏会あたり一人3.5万以下の個人負担で開催している。

1982年  マーラー「千人の交響曲」アマチュア世界初演

果てない夢

 1演奏会で取り上げられる楽曲はせいぜい2、3曲。1年に5,6曲しか演奏できない。しかし普通の市民オケで演奏できない名曲大曲というのは、まだ山ほどある。来年で10周年を迎えるが、20周年あたりが、自分としての区切りかなと思う。それまでには、何としてもグスタフ・マーラーのあの有名な交響曲第8番「千人の交響曲」を演奏したいと考えている。8人もの独唱や大合唱団が必要で、今も歌ってくれる合唱団を探している。夢というのは諦めたら最後。死んでも悔いが残って化けてでなくていいように、いつの日か実現したいものだと思う。